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大隈信常
日本の教育者、政治家 ウィキペディアから
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大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日(明治4年8月16日) - 1947年(昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本の教育者、政治家、実業家、華族(侯爵)である。衆議院議員、貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。
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経歴
平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩主松浦詮で[1]、旧名は松浦常(まもる)である[2]。
1899年(明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。光子は大隈の妻の兄の三女とされていたが、実際には重信が女中に産ませた子である[3]。
早稲田大学教授・早稲田中学校長を歴任する。就任時に生徒であった権田保之助はのちに、紳士然とした前校長の大隈英麿とは正反対で、信常は学校に軽装の着物で現れ、酒の臭いのすることもあり、絶望したと書いている[4]。
第2次大隈内閣成立後首相秘書官となり、1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に大隈伯後援会の一員として群馬県第1区(前橋市区)から立候補し、立憲政友会の前職竹越與三郎を破って当選した。
1922年(大正11年)、重信の死に伴い爵位を継承して貴族院議員となる。翌年、早稲田大学名誉総長に就任した。また、重信が設立した日印協会の第4代会長を務めている。1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)まで報知新聞社長に在任[5]。
1934年(昭和9年)、創立したばかりのプロ野球球団・大日本東京野球倶楽部(会社としては後のよみうり。球団としては現在の読売ジャイアンツ)の代表取締役会長に就任する。1936年(昭和11年)には日本職業野球連盟の発足に伴い、初代総裁に就任した。
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栄典
- 位階
- 1911年(明治44年)6月20日 - 正五位[6]
- 1919年(大正8年)6月30日 - 従四位[7]
- 1925年(大正14年)11月2日 - 正四位[8]
- 1938年(昭和13年)12月1日 - 正三位[9]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
松浦家
大隈家
著書
脚注
関連項目
外部リンク
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