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宇須岸館
中世の箱館(現・函館市)にあった城館 ウィキペディアから
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宇須岸館(うすけしだて)は、河野政通によって築かれた北海道函館市にあった城。
名称の由来
アイヌ語で「ウスケシ(湾の端)」「ウショロケシ(入江の端)」、[2][3]と呼ばれていたところを、和人が「宇須岸」、「臼岸」(読みは共にウスケシ)とあてたとされる。そこに河野氏が館を立てたことで、「宇須岸館」と呼ばれるようになった。
歴史
注:ここでの箱館とは、特に断りのない限り、現在の函館市や旧亀田市の範囲を指すものではなく、箱館桝形(現・豊川町、大手町境界、函館市企業局交通部魚市場通停留場付近にあった番所)より函館山側の地域をいう。
1454年(享徳3年)、河野政通と、武田信広らが蝦夷地に渡来した。政通は、函館湾奥の函館山山麓の土地に、東西に約60m、南北に約50mの館を築いた[4][5]。概ね東側は基坂、西側は東坂の範囲で、ほぼ市立函館病院跡であり、四方に土塁や乾濠をめぐらしていたとされる[6]。
1457年(長禄元年)、コシャマインの戦いで道南十二館のうち、同館を含む十館がアイヌによって攻め落とされた[7]。このとき、政通は討ち死にしたといわれるが諸説ある。1512年(永正9年)、ショヤ・コウジ兄弟の戦いによって、河野季通が敗れたため、箱館のあたりは以後百余年にわたって衰微し、和人らは亀田(旧・函館市大字亀田村。亀田八幡宮)周辺に移り住んだとされる[4][8]。その後の宇須岸館は、自然廃館したと予測されるが、詳細は不明[7]。
18世紀初頭(元禄時代末)、再び亀田周辺より箱館周辺に住民が流入し、それに伴い寺院なども移転し始め、箱館港の発展が顕著になった。1741年(寛保元年)、松前藩のこの地域の行政庁である「亀田番所」が宇須岸館跡地に移された[4][7]。
1799年(寛政11年)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、1802年(享和2年)には、箱館奉行所の庁舎も跡地に置かれた。明治には開拓使の庁舎、戦後も北海道庁函館支庁庁舎など、宇須岸館跡は函館の政治の中心であり続けた。
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アクセス
出典
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