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安倍邦衛
日本の鉄道官僚 ウィキペディアから
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安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。工学博士。元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者[1][2][3]。

略歴
新潟県中蒲原郡流作場新田[注 1](現 新潟市中央区三和町)出身[3][6]。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業[6]。
1906年(明治39年)7月に鉄道作業局[注 2]に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当[6][7]。
1920年(大正9年)8月29日に早川徳次によって設立された東京地下鉄道[注 3]が鉄道省に地下鉄の建設ができる鉄道技師を要請すると、鉄道省の推薦により、1921年(大正10年)1月に東京地下鉄道建設課課長に就任[6][8][9][10][11][12][注 4]。
1921年(大正10年)3月13日から1922年(大正11年)3月16日まで、品川 - 南千住間の193地点のボーリングによる地質調査を実施[10][11][12][13][14][15][16]、同時に地下鉄の設計を作成[6][10][11][12][14][16][17]。
1922年(大正11年)3月24日から同年11月17日まで、作成した地下鉄の設計との比較調査研究のため、アメリカおよびヨーロッパの地下鉄や地下鉄工事を視察[6][10][11][12][14][18][19]、各都市の技師長と面会[20]。
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生すると、鉄道省の要請により、1924年(大正13年)2月22日に帝都復興院[注 5]技師に任官、土木局に配属。
1924年(大正13年)2月25日に内務省復興局土木部工務課課長に就任[6][21]、1924年(大正13年)3月22日から内務省復興局土木部河港課[注 6]課長を兼任。
1926年(大正15年)12月24日に内務省復興局土木部工務課課長を辞職[22]、東京市電気局[注 7]工務課課長および高速鉄道調査課課長に就任[6][23][24][25]。
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栄典
親族
- 安倍九二造 - 父[30]、安倍家12世当主、新潟県中蒲原郡沼垂町第4・7代町長、元新潟県会議員、沼垂幼稚園創設者・初代園長、沼垂図書館初代館長。沼垂町の新潟市への合併を、沼垂町民の反対を押し切り、成立に導いた最後の沼垂町長[31]。
- 安倍邦太郎 - 従甥(伯父の男孫〈安倍九二造の兄の長男の長男〉)[32]、安倍家14世当主、新潟県中学校の2年後輩、実業家、元衆議院議員、第14・15代新潟市会議長、第7代全国市会議長会会長[33]。
- 前田武四郎 - 岳父[34]、電気技術者、実業家、日本電気株式会社(NEC)設立発起人・監査役。「日本電気株式会社」の命名者[35]。越後国蒲原郡大野地村(現 新潟県阿賀野市大野地)出身[36]。
- 前田勝四郎 - 伯父(前田武四郎の兄)[37]、農業研究者、新潟県北蒲原郡堀越村第5・8代村長。著書『救荒新策』の増訂再版の表題は勝海舟が揮毫した[37][38]。
著書
- 『東京地下鐵道地質調查槪况』東京地下鉄道[編]、東京地下鉄道、1921年。
- 『東京の地下鐵道と其工事方法』古市公威[校閲]、東京地下鉄道[編]、東京地下鉄道、1922年。
- 『地下鐵道の話』東京市役所[編]、東京市役所〈市政叢書 第1輯〉、1928年。
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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