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小笠原長守
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小笠原 長守(おがさわら ながもり)は、越前勝山藩の第8代(最後)の藩主。信嶺系小笠原家10代。
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生涯
天保5年(1834年)7月25日、第7代藩主・小笠原長貴の六男として生まれる。天保11年(1840年)5月2日、父の死去により家督を継いだ。嘉永元年(1848年)10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・左衛門佐に叙任する。
当初は長守が幼少のため、林毛川が家老として補佐を務めた。毛川は綱紀粛正、人材育成、産物奨励、天保13年(1842年)からの5ヵ年に及ぶ倹約、生活の簡素化など、積極的な藩政改革に努めた。天保14年(1843年)には藩校・成器堂を創設している。嘉永元年(1848年)には軍備を増強し、専売制を確立するなどして、一時的に藩政改革を成功させた。
しかし弘化4年(1847年)に幕命を受けて関東方面の河川手伝い普請を務め、安政2年(1855年)にも安政の大地震で藩邸が崩壊。 さらに安政5年(1858年)には、国許の勝山で地震があり、天守、櫓、石垣が大破[2]するなどして出費が重なり、藩財政は短期間で悪化した。しかもこれらの被害に加えて、改革における領民に対する普請などの負担が大きかった(砲台建設など)ため、領民から毛川の罷免を求める声が上がり、長守は11月22日に毛川を罷免させた。
その後は親政を行ない、文久3年(1863年)にオランダ式の軍制を採用して軍備を増強し、元治元年(1864年)には大坂加番に任じられた。慶応元年(1865年)には京都守備を務めた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力し、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で勝山藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。
明治6年(1873年)に隠居する。明治24年(1891年)7月24日に死去した。享年58。
詩、書画に優れた文化人であったといわれる。

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系譜
脚注
参考文献
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