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岡野房恒

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岡野 房恒(おかの ふさつね、元亀元年(1570年) - 明暦4年6月2日1658年7月2日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての旗本板部岡江雪斎の長男。旗本岡野氏初代当主となる[1]。通称は平兵衛、号は平入。妻は糟谷豊後守の娘。子に岡野成明岡野成恒、娘(岡野英明妻)、娘(春田直次妻)、娘(山田重勝妻)がいる[2]

経歴

はじめ岩槻城北条氏房に仕え、天正18年(1590年)の小田原攻めでは和談後、城から出た[3]。その後は徳川家康に仕えて武蔵国都筑郡において500石の所領を得た[2]九戸政実の乱1591年)、文禄の役1592年) 、会津征伐関ヶ原の戦い1600年)、大坂冬の陣1614年)、大坂夏の陣1615年)にそれぞれ従った[4]

寛永元年(1624年)に甲斐国八代郡で500石、寛永10年(1633年)に甲斐国八代郡・下総国香取郡で更に500石を加増され、1500石を領した。明暦元年(1655年)に致仕し、養老料500石を賜った。明暦4年(1658年)6月2日に89歳で死去。法名は勝應。墓所は神奈川県横浜市大林寺[2]

脚注

出典

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