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岩倉具経
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岩倉 具経(いわくら ともつね、旧字体:岩倉具󠄁經)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。
経歴
山城国京都で、岩倉具視の三男として生まれる[1]。母は野口為五郎の娘槇子。幼名は八千麿、八千丸。
慶応4年1月9日(1868年2月2日)、戊辰戦争に際し東山道鎮撫使副総督を命ぜられ、兄の総督・岩倉具定と共に江戸へ進軍[1][2]。同年5月20日(7月9日)、奥羽征討白河口副総督に任じられたが、同年6月6日(7月25日)に若年で勉学につくため免ぜられ帰京[1][2]。同月、勲功により一家を創設し堂上に列せられた[1][3]。同年7月15日(9月1日)、元服して昇殿を許され勘解由長官に任じられた[2]。
明治2年(1869年)6月、具定とともに佐賀藩校致遠館に派遣されフルベッキに学ぶ[4]。同年6月2日(7月10日)に戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された[2]。明治3年1月(1870年2月)、アメリカ合衆国へ留学、明治6年(1873年)には最初の日本人学生としてオックスフォード大学に留学[5]、明治11年(1878年)1月に帰国[1]。
明治11年(1878年)8月20日、太政官権少書記官・法制局専務となる[2]。以後、兼大蔵権少書記官、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官などを歴任[2]。明治17年(1884年)7月8日、男爵を叙爵[6]。同年9月、外務書記官に転じロシア公使館で勤務した[1]。帰国して明治23年(1890年)3月に宮中顧問官に就任したが、同年10月に病のため死去[1]。
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栄典
- 位階
- 勲章等
系譜
脚注
参考文献
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