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岩倉具定
日本の政治家 ウィキペディアから
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岩倉 具定(いわくら ともさだ、1852年1月18日〈嘉永4年12月27日〉 - 1910年〈明治43年〉4月1日[1])は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。岩倉家第16代当主。
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経歴
岩倉具視の第3子(次男)として山城国(現在の京都府京都市)に生まれる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争勃発後は、東山道鎮撫総督に任命され東山道先鋒軍(参謀は板垣退助など)を指揮し各地を転戦する。1869年(明治2年)6月、弟の岩倉具経とともに長崎にあった佐賀藩の英学校・致遠館に派遣され、フルベッキに学ぶ[2]。
1870年(明治3年)、米国ラトガース大学に留学し[3]、帰国後は政府に出仕。1882年(明治15年)、伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡る。1884年(明治17年)7月、華族令により義兄である岩倉具綱の家督を継ぎ、公爵を叙爵される。帝国議会開設に伴い1890年(明治23年)2月、貴族院公爵議員に就任[1]。帝室制度取調委員、爵位局長、学習院院長を歴任。1900年(明治33年)に枢密顧問官、1909年(明治42年)に宮内大臣となる。
1910年(明治43年)4月1日、死去。
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人物
明治後半に家計が傾いた三条家と異なり、早い時期から確実な資産経営を行った。明治30年頃の岩倉家の資産は100万円に達したと伝えられる。「三条と違って岩倉は維新のどさくさ紛れに金をため込んだ」と吹聴されたが、具定は勤勉な人物であり、浪費することはなかった(一方の三条家には、遊興で浪費を繰り返した人物が出た)[4]。
栄典
- 1887年(明治20年)12月26日 - 正四位[5]
- 1888年(明治21年)11月9日 - 従三位[6]
- 1892年(明治25年)7月5日 - 正三位[7]
- 1896年(明治29年)6月20日 - 従二位[8]
- 1900年(明治33年)6月20日 - 正二位[9]
- 1910年(明治43年)4月1日 - 従一位[10]
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
著作
- 岩倉具視 著、岩倉具定 編『岩倉贈太政大臣集』 上下巻、岩倉具定、1886年7月。 NCID BA32194807。全国書誌番号:41000952。
- 岩倉具視 著、岩倉具定 編『岩倉贈太政大臣集』(合冊復刻版)明治百年祭準備委員会、1968年4月。 NCID BN09011624。
- 岩倉具定 著、岩倉具栄 編『岩倉宮内大臣集』明玄書房、1960年12月。 NCID BA32909327。全国書誌番号:61007474。
家族・親族
正妻に子爵沢為量の4女・久子。具定には6男5女がいる(生母は不明)。岩倉具張は長男。長女・周子は東伏見宮依仁親王、次女・豊子は侯爵西郷従徳、4女・花子は武井守成、5女・季子は島津忠弘に嫁いだ。具定の5男・岩倉具顕の子息・岩倉具憲はパシフィックホテル社長。具憲の姉・小桜葉子(本名:岩倉 具子)は女優で、俳優の上原謙と結婚。その長男(具定の曽孫)は歌手・俳優の加山雄三。加山の次男で俳優の加山徹は玄孫。具憲の娘・岩倉瑞江は婦人服ブランド「スポーティフ」を経営している。瑞江の長女・岩倉萌花は婦人服ブランド「スポーティフ」に勤めている。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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