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岩倉具綱
岩倉具視の養子 ウィキペディアから
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岩倉 具綱(いわくら ともつな、天保12年4月14日(1841年6月3日) - 1923年(大正12年)10月16日)は、日本の華族、宮内官僚。宮中顧問官。岩倉家第15代当主。
生涯
天保12年(1841年)、富小路政直の長男として生まれる[1]。妻は岩倉具視の長女増子(ますこ)[1]。
1883年(明治16年)、岩倉具視の死により家督を継承[1]。翌1884年(明治17年)7月7日(華族令施行と同日)付で隠居し[1]、岩倉家の家督を具視の実子(二男)である岩倉具定に譲った[1]。
官歴等
- 慶応4年(1868年) - 参与
- 宮内省入省
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)1月8日 - 神宮祈年祭 勅使参向[4]
- 1888年(明治21年)1月16日 - 孝明天皇御列祭 神宮祈年祭 勅使参向[5]
- 1889年(明治22年)7月23日 - 雅楽部長 兼任[6]
- 1890年(明治23年)1月20日 - 孝明天皇御列祭 神宮祈年祭 勅使参向[7]
- 1891年(明治24年)1月20日 - 孝明天皇御列祭 神宮祈年祭 勅使参向[8]
- 1892年(明治25年)3月22日 - 神武天皇御列祭 神宮祈年祭 勅使参向[9]
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年) 3月27日 - 神武天皇御列祭 勅使参向[12]
- 1897年(明治30年)9月13日 - 式部官 兼任[13]
- 1898年(明治31年)6月6日 - 神宮祈年祭 勅使参向[14]
- 1900年(明治33年)9月18日 - 皇大神宮臨時遷御 奉遷勅使並奉幣勅使[15]
- 1915年(大正4年)
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栄典・授章・授賞
- 勲章等
家族・親族
『平成新修旧華族家系大成』によれば、家族は以下の通り[1]。
- 父:富小路政直
- 養父:岩倉具視
- 妻:増子 - 岩倉具視長女、富小路政直養女
- 長女:恭子 - 中御門経隆妻
- 次女:昭子 - 広幡忠朝妻
- 三女:亥尾子 - 南岩倉具威妻
- 長男:具徳 - 国学院大学卒業[27]。妻たかは子爵戸沢正実の三女[27]。長男の具清(1907年(明治40年) - ?)はフランスのグルノーブル大学留学後、駐日アルゼンチン公使館勤務[27]。1935年(昭和10年)年にアルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て「日本フェンシング倶楽部」を設立し、日本で初めてスポーツとしてのフェンシングを広めた人として知られる[28][29][27][30]。次男の具邦(1908年(明治41年) - ?)は陸軍士官学校を出て軍人となった(妻・道子は十河佑貞の長女)[27]。
- 養子:岩倉具定 - 岩倉具視次男
具綱から家督を譲られた具定は、1884年(明治17年)7月の華族令制定に際し、具視の功績によって公爵に叙せられている。
具綱の実子である具徳は、1883年(明治16年)7月に岩倉家から分家して一家を立て、特旨により華族に列せられた[31]。1884年(明治17年)7月の華族令制定にともない男爵に叙せられた[31]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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