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島田洋之介・今喜多代
日本の夫婦漫才コンビ ウィキペディアから
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島田 洋之介・今 喜多代(しまだ ようのすけ・いま きたよ)は、戦後に活躍した夫婦漫才コンビである。夫婦であることを前提にした漫才の先駆けでもあった。
2007年第12回上方演芸の殿堂入り。
メンバー
- 父は、島田好洋の名で一時浪曲師であり、その後は興行師兼芸人のようなことをしていた。岡山で生まれ、父の再婚により父の巡業の一座に加わったが、父が進学を望んだため、兵庫の出石に戻った。成績もよく豊中中学に進んだが、途中で音楽に熱心になり、何とか1933年に卒業。国鉄に入ったが1年程で辞め、父の一座に入った[2]。
- 兄は、戦前の剣劇役者として一世を風靡していて、その一座「剣劇漫党」に加わった。一座で鍛え上げた時代劇体験が彼の戦後に大いに役立った。同じ一座には原哲男がいた。
- 戦後も女剣劇の座を渡り歩いたが壁を感じていた所、秋田実の引き合わせにより[2]、1957年、喜多代とコンビを結成。1959年に結婚。同年吉本興業が演芸に再び力を入れ始め開場したうめだ花月に出演、以降吉本の花月の看板でなんば花月、京都花月に出演、1974年に洋介から洋之介に改名。糖尿病の悪化で1979年に引退。1985年7月20日に慢性腎不全のため大阪赤十字病院で死去した[3][4]。
- 大柄でおっとりとした芸風が小柄で小気味良い喋りの喜多代とのコントラストを生み、舞台に上がりセンターマイクの高さの位置を上げるだけでどっと笑いが起きるほどで、人気漫才師となった。同門の兄弟弟子には島ひろし、志摩八郎(後の松竹芸能文芸部の漫才作家)等がいる。また甥に堀健(島陽之助・堀江洋子の実子、元吉本興業の営業マンから吉本新喜劇に在籍)。
- 東京の漫才師(曲芸師でもあった)巴家寅子に弟子入り「巴家寅の子」を名乗る。かしまし娘の正司歌江や美山なをみ・白川珍児のなをみとコンビを組んだ。結婚し引退していたが子が病死したことで再度舞台に立とうとしていたところで、秋田實の仲介で1957年、夫の島田洋介とコンビを結成、夫の引退後ははな愛花とコンビを組み、「今日喜多代」に改名。1980年、吉本新喜劇団員の阿吾寿朗と再コンビを組む。1990年頃までコンビで活動。
- 今喜多代は後に、今日喜多代や今日規汰代の芸名で講演やコメンテーターで活躍、2011年に死去した。亡くなる10年以上前に引退していた。吉本興業でなく大滝エージェンシーに所属していた。かつて正司歌江とコンビを組んだ経緯からか、本人はかしまし娘に参加したかったようで、すでに50年近くたっても「うちもかしまし娘に入れてもらえるはずやったのに呼んでもらへんかった」と冗談まじりの愚痴をたびたびもらしていた。
- 趣味は易学占いで芸名も易学占いで改名した。
- 本名は「堀清子」といった。
- 焼肉屋を経営していたことがある。
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人物・芸風
出演
テレビ
※喜多代のみ出演。
受賞
弟子
脚注
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