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川合宗見
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生涯
享保18年(1733年)、前橋藩酒井家家老川合定恒の次男として生まれる。
寛延2年(1749年)、幕閣への工作により、酒井家が姫路に転封となる。父定恒はこの転封工作に猛反対していたが、藩主忠恭の命で転封の事務を取り仕切る。寛延4年7月10日、父定恒が、転封工作を行った家老本多光彬、用人犬塚又内を自邸に招き殺害して自害する。川合家は断絶となり、宗見は、母や祖母と共に叔父松下高通に預けられ、五十人扶持が給された。同年8月、兄定連が新知500石で召し出され家老格となるも、病を理由に退進してしまう。
宝暦5年(1755年)、宗見が三十人扶持で召し出され書院番となり、川合家の家名再興が叶った。宝暦12年(1762年)1月、新知200石を賜り小姓番となる。 明和4年(1767年)9月、100石の加増を受け番頭となる。明和6年(1769年)2月、芸事奉行、明和7年(1770年)5月、100石加増、明和9年(1772年)1月、年寄役、安永4年(1775年)12月、加増200石、 安永6年(1777年)7月、城代を兼務することなり、安永7年(1778年)、400石の加増を受け父の旧禄1000石を回復し、家老となる。
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参考文献
- 『河合寸翁大夫年譜』
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