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幸田優
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幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995年6月9日[1])は、東京都品川区[1]出身のプロ野球選手(投手)。
来歴・人物
荏原高校時代にカーブの使い手として注目され、3年夏は都大会ベスト8[1]。
慶応義塾大学へ進学する予定だったが家庭の事情もあって断念し、1957年に大洋ホエールズに入団すると、2年目の1959年には4完封で7勝(防御率2.86)を挙げ先発陣の一角として名乗りを挙げる[1]。
翌1960年には、秋山登のアクシデントもあり開幕投手に抜擢される[1]が、3-4と惜敗。そのまま波に乗れなかったのか2勝にとどまる。
1962年の春キャンプで頭部に打球を受けてしまい骨折[1]。これが原因で同年2試合で1イニング投げたのみで引退した[1]。縦のカーブが武器[2]。引退後は船橋市内の水産会社に勤務していた。
エピソード
- 1959年7月5日対広島17回戦の2回の表に先頭の4番大和田明を2ストライク0ボールと追い込んだ後、ショートバウンドの球を大和田が空振りし、捕手の土井淳が逸らし振り逃げとなる。二盗も決められ無死2塁となるが、続く5番藤井弘、6番横溝桂から連続三振を奪う。しかし、続く7番上田利治にレフト前に運ばれ1点を奪われてしまうが、8番興津立雄を三振にきってとり、史上初の1イニング4奪三振を記録した[1]。
- 日本一となった1960年の開幕戦では秋山登が相手・中日ドラゴンズのコーチである牧野茂の手から離れたバットを頭部に受け、病院に搬送されたために、開幕投手の代役を勤めたが3対4で投げ負けた。翌日のダブルヘッダーの試合にも登板し負け投手になったため、開幕二日で2敗を記録した。
詳細情報
年度別投手成績
背番号
- 51(1957年)
- 44(1958年 - 1962年)
脚注
関連項目
外部リンク
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