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横溝桂

日本のプロ野球選手、コーチ、スカウト、解説者(1935-) ウィキペディアから

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横溝 桂(よこみぞ かつら、1935年10月1日 - )は、岡山県総社市出身の元プロ野球選手投手外野手内野手、左投左打)・コーチスカウト解説者

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

岡山東高校ではエースとして、同期の野上浩郷とバッテリーを組み、1954年春の選抜に出場するが、1回戦で泉陽高に敗退[1]。岡山東高は選抜初出場であった。同年夏も県予選を勝ち抜き東中国大会1回戦まで進むが、米子東高義原武敏投手に抑えられ延長12回0-1xでサヨナラ負け、甲子園には届かなかった。高校の1年上に、後にプロ野球を経て俳優となる八名信夫明大中退-東映)がいた。

野上と共に1955年広島カープへ入団。貴重な左腕として期待されたが、以前からの肩の故障が悪化し外野手に転向する。1959年に一軍に定着、翌1960年には小坂佳隆らと1、2番を組み、右翼手または中堅手として定位置を確保する。同年は守備面でも9補殺を記録している。1961年には山本一義が新入団、外野のレギュラー争いが激しくなるが、1963年からは一塁手もこなし、真面目さと勝負強さを武器に名脇役として活躍した。1966年]にはオールスターゲームにも出場している。1969年限りで現役引退。

引退後は広島でスカウト(1970年 - 1971年)→二軍打撃コーチ(1972年)→一軍打撃コーチ(1973年)を務め、退団後は中国放送解説者(1974年 - 1977年)を経て、南海ヘッドコーチ(1978年 - 1980年)、阪神一軍打撃コーチ(1981年 - 1983年)→ スカウト(1984年 - 1996年)→取締役編成部長(1997年 - 1998年)を歴任。南海コーチ時代には片平晋作を育て、阪神コーチ時代には掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を中西太監督と共に築き上げ、スカウトとしては新庄剛志を見出した。退団後は西宮市内在住。

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エピソード

戦後、一野球ファンとして野球観戦を続けていた木庭教が、当時広島カープの役員をしていた広島商業の恩師に「そんなに野球が好きなら、いい選手いたら紹介して」と言われて、推薦文を送ったのが横溝である。結局この功績が認められて広島カープのスカウトとして正式採用され、以降40年間スカウト活動に従事した。

傑出した身体能力や成績がある訳でも、タイトルを獲得したこともなく、風貌も人柄もナインからは「真面目もあそこまでいくと味がある」と冷やかされるほどに真面目な選手だった。しかし、ここ一番で神懸かった活躍を見せてやたらと頼りになることから付いたあだ名が「(新聞の)見出しの横」だった[2]。以下がその活躍である。

  • 投手として入団し、故障で平山智小鶴誠がレギュラーを張っている外野手に転向した。横溝は入団から5年間一軍と二軍を往復する中で「1日を2日分に」と生来の真面目さから猛練習をこなした。
5年目の1959年に平山智が故障した為、急遽一軍に呼ばれた横溝はいきなり先発出場に抜擢される。この試合で大洋のエース秋山登から4打数3安打2二塁打を放った。5年の下積みの後にこの1試合の活躍で一軍定着を果たした。
  • 翌1960年6月25日から30日に広島は巨人・阪神に対して6連勝している。この間、横溝は3試合連続本塁打を含む23打数14安打14打点を挙げ「見出し」を独占した。
  • 1960年シーズンの最終戦となった10月5日の大洋戦で先頭打者本塁打を放った。これが決勝点となり、広島は球団史上初の勝率5割を達成した。
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詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

節目の記録
  • 1000試合出場:1969年5月5日 ※史上137人目
その他の記録

背番号

  • 31(1955年 - 1969年、1972年 - 1973年)
  • 61(1978年)
  • 71(1979年 - 1980年)
  • 84(1981年 - 1983年)

脚注

関連情報

関連項目

外部リンク

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