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式守勘太夫 (7代)

大相撲の行司 (1924-2002) ウィキペディアから

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7代 式守 勘太夫(ななだい しきもり かんだゆう 1924年10月16日-2002年9月30日)は大相撲の元三役行司。三役格としての在位期間は1988年1月〜1989年9月。鏡山部屋伊勢ヶ濱部屋所属。

概要 基礎情報, 行司名 ...
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人物

鳥取県境港市出身。本名は江川鶴夫。師匠は5代式守勘太夫6代鏡山勘太夫)である。

1938年に式守鶴夫の名で初土俵。以後貢市、勘之助、更一郎と改名し、1954年3月に式守勘之助の名で十両格に昇格。1958年7月6代式守与之吉襲名。1961年11月に幕内格昇格。1967年5月に7代式守勘太夫襲名。幕内格昇格から27年後の1988年1月に三役格に昇格。三役格を11場所務め、1989年9月場所後停年。最後の裁きは前頭8枚目両国(現境川) - 同筆頭水戸泉(現錦戸)。

2002年9月30日逝去。77歳没

評価

1972年に開始された行司抜擢制度の煽りを食った一人で、雑誌などの文献によると、木村筆之助とともに力量が劣っていたようで、22代木村庄之助24代木村庄之助からも名指しで「まずいねえ」と言われている[1]

そのため、幕内格筆頭まで進みながら8代式守錦太夫14代木村庄太郎6代木村庄二郎の3名に次々抜かれ、なかなか三役格に昇格できず、実に27年間も幕内格のまま据え置かれていた。 1987年10月、2代式守伊三郎の死去に伴い、翌1988年1月にようやく三役格に昇格、長年の苦労が報われた形となった。

エピソード

  • 1987年10月に三役格の2代式守伊三郎が死去。同年11月場所では4横綱4大関の豪華布陣となり、三役格が14代庄太郎と6代庄二郎の2人しかいなかったこともあり幕内格のままで大関取組を裁いた(その日の大関最初の一番、6日目東大関小錦-東前頭2枚目板井[注 1]など)。彼が三役格に昇格したのは翌1988年1月であるが、場所前に横綱双羽黒が廃業。3横綱4大関の布陣となったため、三役格では大関の取組を裁くことなく停年を迎えた。
  • 高見山(前頭4枚目)が初優勝を決めた一番を裁いたのは彼である(1972年7月場所千秋楽、同7枚目旭國戦)。

履歴

関連項目

脚注

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