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御前会議

天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議 ウィキペディアから

御前会議
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御前会議(ごぜんかいぎ、旧字体御前󠄁會議)とは、明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急な重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚首脳が集まって行われた合同会議[1]。ただし法制上には規定はなかった[1]

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第1回御前会議(1938年(昭和13年)1月11日)の様子。写真左より軍令部作戦部長近藤信竹少将、軍令部次長嶋田繁太郎中将、海軍大臣米内光政大将、軍令部総長伏見宮博恭王元帥海軍大将、昭和天皇、参謀総長閑院宮載仁親王元帥陸軍大将、陸軍大臣杉山元大将、参謀次長多田駿中将、参謀本部作戦部長下村定少将。

概要

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日清戦争前の広島大本営での御前会議。 中央 明治天皇、右端から川上操六大山巌伊藤博文、 左端から樺山資紀西郷従道山縣有朋有栖川宮熾仁親王

広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争開始終了に関して開かれた、天皇・元老閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

1894年明治27年)に対開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉日露戦争などに際して開催され、1938年昭和13年)以後には日中戦争支那事変)の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦=真珠湾攻撃による太平洋戦争開戦、太平洋戦争終結などを決定した。

大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。

御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された

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構成員

日中戦争以後の御前会議

1938年(昭和13年)に復活して以降について記す。

さらに見る 回, 開催日 ...

場所

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1944年(昭和19年)の御前会議

御前会議は通常、明治宮殿車寄を入って右側にある「東一の間」などで開催された。しかし終戦直前の2回の御前会議は、「望岳台」近くの地下壕「御文庫附属庫」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほどであり、天皇・皇后の寝室・居間のある御文庫[注釈 3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1945年(昭和20年)には、大型爆弾にも耐えられるよう陸軍工兵隊が補強工事を行い[10]、附属庫での初めて枢密院本会議が、1945年(昭和20年)6月2日に開催された[注釈 4]

日英米開戦をめぐって

1941年(昭和16年)9月6日の第六回御前会議では、前述の通り、昭和天皇は祖父明治天皇御製を冒頭で引用した。この意図について、昭和天皇は1985年(昭和60年)4月15日の記者会見で次のように語った。

「会議の議題の第一議に戦争準備をすることが掲げられ、また、次に平和のための努力となっていましたが、私は平和努力と言うことが第一義になることを望んでいたので、明治天皇の御歌を引用したのです」[11]

天皇は、この前日に近衛文麿首相から帝国国策遂行要領の内奏(事前報告)を受けており、このとき天皇の回想と同様の発言があったと、近衛文麿側の手記にも記録がある[11]

当時陸軍省軍務局高級課員であった石井秋穂は、第一項に戦争、第二項に外交という記述をしたのは自分であると、後にNHKテレビ番組で証言している[12]

会議当日の杉山元陸軍参謀総長のメモ(杉山メモ)にも、平和的外交をするよう、天皇から命ぜられたと記録がある[11]

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脚注

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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