トップQs
タイムライン
チャット
視点
小磯内閣
日本の内閣 ウィキペディアから
Remove ads
小磯内閣(こいそないかく)は、予備役陸軍大将、朝鮮総督の小磯國昭が第41代内閣総理大臣に任命され、1944年(昭和19年)7月22日から1945年(昭和20年)4月7日まで続いた日本の内閣。
閣僚の顔ぶれ・人事
要約
視点
国務大臣
1944年(昭和19年)7月22日任命[1]。在職日数260日。
内閣書記官長・法制局長官
1944年(昭和19年)7月22日任命[1]。
政務次官
1944年(昭和19年)9月1日任命[2]。
参与官
1944年(昭和19年)9月1日任命[2]。
Remove ads
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き
要約
視点
前の東條内閣は、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)を開戦時から指導していたが、戦況の悪化と、戦争遂行のための権限の集中が世論の反発を招いたことにより、サイパン島陥落により絶対国防圏が破られ、本土空襲が可能になったことが引き金となって、重臣たちの倒閣によって内閣総辞職に追い込まれる。
後継を選定する重臣会議では、終戦の方向に軍(特に陸軍)を統率する必要があることから後任は陸軍内部者とすることでまず合意。広田弘毅元首相ら一部重臣は梅津美治郎陸軍参謀総長を推す声が上がるも、梅津参謀総長は陸軍を直接抑えるための役回りとして直前に昭和天皇たっての希望で人選されたことから転任は不可となり、最終的には寺内寿一南方軍総司令官(元帥陸軍大将)、小磯国昭朝鮮総督(予備役陸軍大将)、畑俊六支那派遣軍総司令官(元帥陸軍大将)の順番で最終候補になる。寺内総司令官については、梅津参謀総長から、現在の戦況から呼び戻すのは不可、との意見があったのを受け、小磯総督が次期首相となる。小磯総督は久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を持たないことから、これを補うために、米内光政元首相と二人に大命降下され、両名共同で組閣する連立内閣の形式を取らせることにした[注釈 5]。米内は現役に復帰し、副総理格の海軍大臣に就任した[3]。
東條前首相が一貫して兼任していた陸相の後任は、小磯首相が同じく現役に復帰した上で兼任する案や、東條が専任で留任する案もあったが(他に小磯首相は山下奉文または阿南惟幾の起用を望んだ)、陸軍人事の最終決定権を握った陸軍三長官会議において、梅津参謀総長が「東條大将が留任することは適当でない」と断言したのを受けて、教育総監に就任したばかりの杉山元元帥陸軍大将が横滑りで就任、東條は予備役に退いた[4]。
また、帝国議会において翼賛政治会の支持を得るため、第2次近衛内閣以来設置が見送られていた政務次官・参与官が復活した。
- 主な政策
- 戦況…サイパン陥落と前後して作戦立案を行う立場に就いた堀栄三陸軍大佐の指導の下、島嶼部における防衛方針を変更。それまでは日本軍は「水際撃滅」戦術をとり、米軍の海上からの射撃を前に全滅を重ねていたのを、島の奥深くにこもっての持久戦に変更したことにより、以降の主な戦闘であったペリリューの戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦の各戦闘では日本軍は善戦を重ね、米軍にも大きな死者を出す。しかしすでに戦争は終盤に差し掛かっており、全体の戦況を覆すには至らなかった。1945年2月頃から、空襲が激化する。
- 出口戦略…日米戦争の直接の原因となった支那事変への出口戦略として、南京国民政府(汪兆銘政権)の繆斌立法院副院長を窓口とした和平交渉を模索する。これは、小磯首相が士官学校時代の同期生である山縣初男予備役陸軍大佐の人脈で得たパイプであり、1945年3月21日、小磯首相は最高戦争指導会議において繆斌工作の進展を提唱する。しかし閣僚らは、そもそも繆の素性や、南京国民政府における彼の権限を疑問視して反対。閣内不一致が表出されただけで、進展しないまま沙汰止みとなった[5]。
1945年3月に入ると、東京大空襲や沖縄戦の開戦によって本土決戦がいよいよ秒読みとなる。その情勢の中、有効な出口戦略を示せなかった小磯首相の権威は失墜し、失脚不可避となる。小磯首相は、本土決戦に備えて新設された第1総軍総司令官に転出した杉山陸相の後任として陸相を兼任する考えを示すも拒否され、4月5日、内閣総辞職[6]。後継には天皇自らの説得により鈴木貫太郎枢密院議長が立てられ、日本は欧米列強相手の終戦交渉に乗り出すことになる。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads