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徳川厚
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德川 厚(とくがわ あつし、1874年(明治7年)9月2日 - 1930年(昭和5年)6月12日[1])は、日本の実業家、政治家、名望家[2]。爵位は男爵。号は龍山。新字体で徳川 厚(とくがわ あつし)とも表記される。
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来歴
生い立ち
江戸幕府第15代将軍であった德川慶喜の四男として生まれた。母は側室の中根幸。小林与七郎のもとに預けられる。兄の夭折により、慶喜の事実上の長男として育てられた。1882年(明治15年)11月に9歳で德川宗家から分家し、華族に列した。なお、德川宗家自体の家督は、1868年の時点で既に慶喜から德川家達に譲られている。
1884年(明治17年)7月7日、華族令に伴って男爵に叙せられる。なお後年になって、慶喜が公爵に叙され新たに徳川慶喜家を興すが、こちらの家督は厚の弟である德川慶久が継いでいる。そのほかの弟には、徳川慶喜家から分家した德川誠や、勝海舟(伯爵)の家を継いだ勝精などがいる。
実業家として
1887年3月、弟・博(後の池田仲博)とともに静岡から東京に移り、4月、学習院に入学する。1888年7月、学習院を卒業する。1895年12月、旧越前福井藩主である松平春嶽の六女・里子と結婚する。1904年の第3回貴族院男爵議員選挙にて選出され、同年7月10日に貴族院議員に就任した[3]。以来、1911年の第4回貴族院男爵議員選挙[4]、1918年の第5回貴族院男爵選挙でも再選され[5]、1925年7月9日まで貴族院議員を務めた[1]。また、東明火災保険(後に東京海上火災に合併)取締役も務めた。1927年(昭和2年)5月、隠居し、長男・喜翰に家督を譲った。墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
ひき逃げ事件
1917年(大正6年)12月に運転免許状を取り、厚は自ら自動車を運転していた。1918年(大正7年)3月7日の夕方、帝国ホテルで食事をしてかなりの酒を飲んだ。帰途も自ら運転を行い、酩酊していたため自宅とは違う方向に走らせていた。煮豆屋の屋台にぶつかり、屋台を引いていた男が左大腿部に全治3週間の重傷を負った。厚はそのまま自動車を運転して現場を離れるも、通行人が警察に届けてほどなく取り押さえられる。厚は酩酊していてまともに返答できなかった。3月10日、警視庁は飲酒運転の廉で運転免許状の返納を命じる。16日、右側通行が道路取締役規則に違反しているとして、警視庁は10円の過料処分に付した[6]。
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人物
「趣味すこぶる広汎にして、競馬、撞球、銃猟、運動、絵画等何れも玄人の域に達する」[7]と評された。
文学を好み龍山と号した。また、天理教徒でもあった。
家族
妻の里子(1878年 - 1955年)は、旧越前福井藩主・松平慶永の六女。子女は以下の5男2女である。
- 長男:德川喜翰(1897年1月21日 - 1938年5月10日) - 妻は白井新太郎の長女・美代子[8]。父の隠居を受け男爵となる。
- 次男:德川喜福(1898年4月16日 - 1972年11月20日) - 伯爵大木遠吉の娘・伸子と結婚、婿養子となり、大木姓となる
- 三男:德川喜好(1899年12月25日 - 1959年5月22日) - 徳川慶喜家概要参照。1930年に詐欺強盗罪で収監される[9]。
- 四男:德川喜知(1901年5月28日 - 1929年11月27日)
- 長女:徳川喜久子(1902年10月29日 - 1923年12月18日) - ※高松宮宣仁親王妃喜久子とは別人。
- 五男:德川喜堅(1907年10月2日 - 1971年12月11日) - 兄・喜翰の養子となり襲爵。
- 次女:德川喜和子(1910年10月31日 - 1997年8月21日) - 元夫は戸田豊太郎。華頂博信参照。子の徳川豊治はアルコール中毒とも言われ、養子縁組した日露混血の男が徳川光康を名乗る(徳川慶喜家の項参照)。
出典
参考文献
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