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徳川宗翰

日本の江戸時代の大名。常陸水戸藩5代藩主。従三位・左近衛権中将、参議。徳川宗堯の次男。側室に中沢尾上(中澤氏、子に直之允(1753.1.23-1795.7.15、次男)、直之助(1755.8.22-1756.4.10、四男 ウィキペディアから

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徳川 宗翰(とくがわ むねもと)は、常陸国水戸藩の第5代藩主。

概要 凡例徳川 宗翰, 時代 ...

生涯

享保13年(1728年7月29日徳川宗堯の次男として生まれる。幼名鶴千代。母は藩主世嗣徳川吉孚徳川綱條の三男)の一人娘・美代姫

享保15年(1730年)、父の早世により3歳(満年齢1歳)で跡を継いだ。幼少のため、将軍・徳川吉宗により御附家老中山信昌ほか家老が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。

長じては父と同じく行き詰まった藩政を立て直そうと志し、寛延2年(1742年)に支藩藩主の松平頼寛守山藩)と松平頼済府中藩)が老中堀田正亮の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられたこともあり、宝暦改革と呼ばれる藩政改革を実施した。太田資胤に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年(1756年)に資胤が致仕すると頓挫した。その後も改革は進まず、晩年の30代後半になると、たびたびの挫折に改革の志も萎えたらしく、奥に入り浸って歌舞音曲や酒に耽ったという。明和元年(1764年)に水戸城が全焼するなどの災害もあった。跡を長男の治保が継いだ。

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官歴

※日付=旧暦

家系

偏諱を与えた人物

演じた俳優

脚注

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