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徳本一善

日本の長距離走者(陸上競技)、コーチ ウィキペディアから

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徳本一善(とくもと かずよし、1979年6月22日 - )は、広島県広島市佐伯区(出生当時は佐伯郡五日市町)美鈴が丘生まれの陸上競技選手駿河台大学コーチ、駅伝監督を歴任し、現在は芝浦工業大学駅伝部監督。ニックネームは「徳さん」。血液型:O型。

概要 徳本 一善, 選手情報 ...
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経歴

要約
視点

中学生時代

父親が陸上競技好きで、父親との親交を深めるために陸上部入部を決意。小学校のマラソン大会で1位になったことも陸上部入部の要因となった。しかし、当時は走ることは余り好きではなく、『SLAM DUNK』の影響からバスケットボール部への入部と迷う場面もあった。

美鈴が丘中1年時は100m、走り幅跳びを専門種目としていた。中学1年の秋に1500mに出場し、2年時から本格的に長距離に転向。2年時には1500m、3000mにおいてその才能を開花させ、一躍同学年の全国レベルに名乗りを上げた。3年時には全日本中学校陸上競技選手権大会で1500m2位、3000m3位になった。この1500mのレースではゴール目前までトップを走るも、ガッツポーズをしている間に逆転されてしまった。

高校生時代

当初、広島県立西条農業高等学校へ入学予定だったが広島市立沼田高等学校の指導者・三浦学に憧れ沼田高校に入学。高校1年時に中国大会6位でインターハイ1500mに出場。その直後の8月17日、三浦が交通事故で亡くなりショックで練習に手がつかない日々が続いた。

1年時の冬に疲労骨折し水泳や自転車の練習に明け暮れる。2年時のインターハイ予選には800mだけ出場し、準決勝敗退。しかし地元広島国体の少年男子A1500mでは4位に入賞。2年時の冬にまたも疲労骨折したが、3年時のインターハイ予選には800m、1500m、5000mと3種目に出場、3種目とも本選に進出した。結果は800m準決勝敗退、1500m2位、5000mは棄権した。(1500mの優勝者は高校1年生であり、後に高校記録、ジュニア記録保持者となる佐藤清治) 高校最後の試合は日の丸を付けて走りたいとの思いから卒業式と日程が重なる福岡国際クロスカントリー大会に出場しジュニア8km優勝。世界クロスカントリー選手権日本代表となる。

大学生時代

13大学、4実業団から勧誘があり、実業団に進む事も考えていたが、引退後の生活も考え、大学へ進学する事を選択。その中で、選手を縛り付けず、比較的自由な練習メニューと結果を残せばルーズな服装もある程度許される環境に惹かれた事、さらに1学年上で同郷の為末大が在学していた事もあり、法政大学社会学部に入学。練習でも先輩後輩関係なくやる気のない部員には罵声を浴びせ、大会前には度々強気な発言もするビッグマウスなところもあったが、現実にインカレでは1500m、5000m、10000mで活躍し、大学陸上界を代表する選手となった。

元々、1500mでの日本記録更新を目標にしていた事もあり、入学後も箱根駅伝にはさほど興味を持っていなかったが、それでも5000m、10000mでチーム内上位のタイムを持っていた事や予選会でもチーム2位である個人25位と好走し、本大会出場に貢献した事から、出走する事になる。 迎えた本大会では1区を走り、区間10位と平凡な成績に終わったが、ここで走った経験が箱根駅伝に対する思いを強くし、練習に対する意識改革へと繋がり、学生長距離界のエースとして成長していく事になる。

そして、2年時には、坪田智夫(現:法政大学陸上競技部監督)と共に、名実共に法大のWエースとなる。 また、外見についても、1年時は他大学の学生ランナーとさほど変わりは無かったが、2年時になると、茶髪、時に法政カラーのオレンジに染め抜いた髪とオークリーのサングラス姿がトレードマークとなる。朴訥系の多い学生陸上選手の中にあっては異様なキャラだったため、箱根駅伝を中継する日本テレビを中心にマスメディアが大きく取り上げ、「ビジュアル系ランナー」「爆走王」などとして注目された。徳本の影響で、この後も法大は派手なチームカラーを前面に押し出している。 箱根駅伝予選会では個人8位となり、2年連続の本大会出場に貢献すると、本大会では2年連続の1区となり、スタートから飛び出すとそのままトップで中継し区間賞、2区の坪田に襷リレー、坪田も区間賞を獲得した事でオレンジ旋風を巻き起こす。

坪田が卒業した3年時は、チームの大黒柱となる。前哨戦となる出雲駅伝で1区区間賞、その12日後の箱根駅伝予選会では個人15位となり、3年連続の本大会出場に貢献、それからわずか15日後の全日本大学駅伝では2区を走り区間賞と、ハードスケジュールの中でいずれも好走する。そして、本大会では2区を走り、板山学中央大学、現:SGホールディングスコーチ)、岩水嘉孝順天堂大学、現・住友電工陸上競技部長距離ヘッドコーチ)、神屋伸行駒澤大学、現:ランニングアドバイザー・KAMIYAランニングクラブ代表、相生学院高等学校駅伝部監督)らと競って区間2位(日本人トップ)。

4年時は、ユニバーシアード北京大会で10000mに出走し、銅メダルを獲得するなど、国際舞台でも活躍した。 そして、前哨戦である出雲駅伝では3区区間賞、全日本大学駅伝では2区を走り区間2位と好走し、最後の箱根駅伝でも2区を走ったが、5.4km地点で右足肉離れを発症、成田道彦監督らに止められ途中棄権となった。徳本は大会史上8人目の途中棄権者であり、スタートから28.6km地点での途中棄権は箱根駅伝史上最短である。かねてからのビッグマウスぶりには味方と同時に快く思わない人も少なくなく、徳本のホームページの掲示板に誹謗中傷が相次ぎ、一時閉鎖に追い込まれたこともある。ただ、この途中棄権が転機となったのか、次第に強気な発言は影を潜め人間的にも丸くなっていく。社会人1年目には母校の夏合宿に参加し、「ひょっとしたら俺はまだ法政大学なんじゃないかと思った。学生の時は言いたいことばっか言って父親的な感じだったけど、今だったら『こうしたら速くなれる』とか、相手の悩みに答えてあげられる、そんな母親的な自分もいますね」と徳本は振り返っている。

社会人時代

様々な企業から勧誘を受けるが、日清食品白水昭興監督の「自分らしく競技できるのが一番いいんだ。お前は金髪が似合う。それでいいじゃないか。」という言葉に惹かれ日清食品に入社。2003年2004年日本選手権男子5000m連覇。2003、04年にはパリ世界陸上選手権アテネオリンピック5000m標準B記録である13分25秒40を突破するために積極的に海外レースに参加。しかし僅か0.8秒及ばず世界への挑戦は断念。一時スランプに陥っていたが、ひざを手術し2006年頭に復活。2006年世界クロスカントリー選手権福岡大会の男子シニア12キロの代表に選ばれた。同年には全日本大学駅伝の移動中継車の解説と2007年箱根駅伝でゲスト解説を務めた。

2007年東京マラソンで初マラソン。記録は2時間15分55秒で5位入賞だった。

2011年11月、駿河台大学に選手兼コーチとして就任[1]。2012年4月より監督に就任するとともに、モンテローザにも社員として所属しつつ、現役ランナーを続けている[2]

2012年12月、防府読売マラソンにて2時間14分48秒の4位入賞を果たす。日清食品グループ時代の自己記録を更新。

2021年10月23日、第98回東京箱根間往復大学駅伝競走の予選会で、駿河台大学は出場枠10の中で8位に入り、監督就任10年目にして箱根駅伝初出場に導いた。

2024年度限りで駿河台大学駅伝部の監督を退任。その後、2025年4月に芝浦工業大学駅伝部の新監督に就任した[3]

その他

ファッションブランドでデザイン提案をし、自分のブランドを立ち上げたこともあった。既婚、1男1女の父。

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記録

要約
視点

トラック&フィールド年次ベスト(太字は自己記録)

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ロード年次ベスト(太字は自己記録)

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駅伝成績

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主な成績

要約
視点

中学

3年

高校

1年

2年

3年

大学

1年

2年

3年

4年

社会人

1年

2年

3年

4年

  • 2005年 - 2005年日本ランキング 5000m49位
  • 2005年 - 2005年日本歴代ランキング 1500m9位 5000m9位
  • 2005年 - 2005年高校歴代ランキング 1500m2位 5000m41位
  • 2005年 - 2005年中学歴代ランキング 800m49位 1500m15位 3000m60位

5年

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脚注

外部リンク

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