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惠蘓嶽峰右エ門
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惠蘓嶽 峰右エ門(えそだけ みねえもん)は、江戸時代の大相撲の第40代大関。番付上は「羽州」頭書。
明和8年(1771年)冬場所(10月)、恵蘇嶋團右エ門(えそじま たんえもん)の名で西大関で大相撲の番付に登場したが、その場所の取組は休場した。次の安永元年(1772年)冬場所(11月)から惠蘓嶽峰右エ門と改名して、千秋楽のみ取組に出場して敗れた。その次の安永2年(1773年)春場所(閏3月)は2番の取組に出場したが2番とも敗れ、結局1勝もできないまま引退となった。
大坂相撲の安永2年(1773年)7月の番付で、西大関で九州頭書として「蝦夷島丈右衛門」、安永8年(1779年)7月の番付で、東大関として「蝦夷島浦右衛門」の四股名が見えるが、いずれも本項の「惠蘓嶽峰右エ門」と同一人物かどうかは不明である[1]。
主な成績
- 通算成績:0勝3敗21休
出典
関連項目
外部リンク
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