トップQs
タイムライン
チャット
視点

愛国百人一首

ウィキペディアから

Remove ads

愛国百人一首(あいこくひゃくにんいっしゅ、旧字体愛國百人一首)は、いわゆる異種百人一首のひとつ。戦時中の翼賛運動の一環として、「愛国の精神が表現された」とする名歌百首を選んだもので、皇室への崇敬を筆頭に、国土愛や家族愛の歌が採られている。カルタとしての遊び方については、百人一首の項を参照のこと。

歴史

日本文学報国会情報局の後援、大政翼賛会の賛助、東京日日新聞大阪毎日新聞の協力を得て企画された。選定委員は佐佐木信綱土屋文明釈迢空斎藤茂吉太田水穂尾上柴舟窪田空穂吉植庄亮川田順齋藤瀏松村英一北原白秋ら12名[注 1]。企画目的は「聖戦下の国民精神作興」であり、選定基準は「万葉時代から幕末までの詠歌者の分かっている臣下の和歌であり、愛国の精神が、健やかに、朗らかに、そして積極的に表現されていること」とされた。また、幕末期の歌は「明治改元より先に物故した人物」に限られた。

選ばれた百首は、情報局検閲を経て昭和17年(1942年11月20日、情報局から発表された。これに改訂と解説を加えたものが、『定本愛国百人一首』として昭和18年(1943年)3月に毎日新聞社から刊行されている。

選定後

百首が発表されてから間もなく、関連する作品として、解説書、評釈、カルタ、紙芝居、書道手本、各国語への翻訳書などが多く作られた。例えば1942年には、山内任天堂によって商品化され販売された[1]。任天堂の歴史の中でも、大政翼賛会の後援を得た珍しいゲームである[注 2]。なお、太平洋戦争中に任天堂が発売したゲームは翼賛的な物が多く、花咲かじいさん三八式歩兵銃を片手に落下傘で降下して大東亜共栄圏に花を咲かせたりする内容の『幼年双六』(1943年、山内任天堂)などが知られる[要出典]。また、百人一首の歴史の中でも特筆すべき物として、山内溥(『愛国百人一首』を発行した山内積良の孫)が設立した時雨殿でも、「絵入愛国百人一首」が展示されていた。

このように戦意高揚を目指したプロパガンダとして、大日本帝国の歴史的・精神的アイデンティティを誇示するために選定された百首は、国策として日本国内はもとより占領地にも広められ、新聞ラジオなどの様々なメディアで盛り立てられたことで、学校現場や家庭に浸透した[2]昭和天皇も愛国百人一首をしていた記録が残る[3]。一方で、この百首の選定による「愛国の精神」の可視化は、その解釈を異にする人々の反発を受けることになった[4]

Remove ads

一覧

さらに見る 番号, 詠み人 ...
Remove ads

異種愛国百人一首

要約
視点

一般に「愛国百人一首」といえば、日本文学報国会版のものをさすが、これに先立つ1941年(昭和16年)に、講談社から選者川田順で、同じく「愛国百人一首」が選定・出版されている[7]。概ね日本文学報国会版と共通しているが[注 3]、日本文学報国会版が「幕末に詠まれた歌であっても、作者が明治以後まで生存したならば採用せぬ」のに対し、川田版は明治以降の歌も率先して採用している[8]

一覧

さらに見る 番号, 詠み人 ...
Remove ads

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads