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日下部子麻呂

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日下部 子麻呂(くさかべ の こまろ)は、奈良時代貴族。名は古麻呂とも記される。宿禰官位従四位上内豎員外大輔

概要 凡例日下部子麻呂, 時代 ...

経歴

筑後介在任中の天平10年(738年)に朝廷に献上する鷹を運ぶために、部領使として大宰府から平城京に赴く。

天平勝宝7歳(755年従五位下叙爵天平宝字元年(757年)従五位上・左兵衛督、天平宝字4年(760年正五位下、天平宝字7年(763年)正五位上に叙任されるなど、孝謙朝末から淳仁朝にかけて順調に昇進する。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では山城守官職にあったが、藤原仲麻呂宇治経由で近江国へ逃走しようとしたところを、先手を打って衛門少尉佐伯伊多智と共に田原道経由で近江国に入り勢多橋を焼き払い、仲麻呂の東国への退路を遮断した[1]。乱後には従四位上・播磨守に叙任され、乱での功労により天平神護元年(765年勲二等叙勲を受け、天平神護2年(766年)には功田20町を与えられた。神護景雲元年(767年内豎員外大輔に転じた。

宝亀4年(773年)5月17日卒去。最終官位散位従四位上。

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官歴

続日本紀』による。

脚注

参考文献

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