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曽於郡

鹿児島県(大隅国)の郡 ウィキペディアから

曽於郡
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曽於郡(そおぐん)は、鹿児島県大隅国)の

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鹿児島県曽於郡の位置(緑:大崎町 桃:第1次のみ所属 薄緑・水色:第2次のみ所属)

人口11,368人、面積100.64km²人口密度113人/km²。(2025年7月1日、推計人口

以下の1町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

  • 曽於市の大部分(大隅町月野・大隅町境木町・大隅町荒谷を除く)
  • 霧島市の大部分(溝辺町各町・横川町各町・牧園町各町・隼人町朝日・隼人町東郷・隼人町西光寺・隼人町嘉例川を除く)
  • 鹿屋市の一部(輝北町諏訪原・輝北町市成)
  • 垂水市の一部(牛根境)

1897年(明治30年)に再度発足した当時の郡域は、上記1町に下記を加えた区域にあたる。

  • 曽於市・志布志市の全域
  • 鹿屋市の一部(輝北町諏訪原・輝北町市成)

歴史

要約
視点

当初は「囎唹郡」と記され、昭和47年(1972年)に「郡の名称変更」(昭和47年自治省告示第82号)により改称されるまでこの表記であった。なお、古くは口偏のない「贈於郡」の表記も用いられた[注 1]

また、『筑前国風土記』では当時隣接した肥後国球磨郡との連称表記「球磨囎唹」がみられ、これを熊襲と同定する説もある[1]

近世以前

和銅6年(713年)に日向国から大隅国が分割された時点で存在した4郡(肝属郡・囎唹郡・大隅郡姶羅郡)の一つである。

当初の囎唹郡は大隅国の北半を占め、現在の姶良市湧水町伊佐市南部にわたる郡域を有した。大隅国成立後間もない和銅7年(714年)に桑原郡が、次いで天平勝宝7年(755年)に浮浪の請願により菱刈郡が、それぞれ囎唹郡より分割されている[2]

南北朝時代に編纂された『拾芥抄』および江戸時代に流通した『節用集』(易林本)によれば、大隅国の国府は囎唹郡(贈於郡)に位置したとされる[2]。一方で平安時代に成立した『色葉字類抄』では桑原郡が国府所在地であるとしており、郡域の変動があったとみられている[2]

囎唹郡(第1次)

所属町村の変遷は東囎唹郡#郡発足までの沿革西囎唹郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
  • 旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では全域が薩摩鹿児島藩領であった[注 2]。(53村)
    • 後の東囎唹郡域(4郷余・15村) - 恒吉郷、市成郷、末吉郷、岩川郷および財部郷の一部
    • 後の西囎唹郡域(5郷余・38村) - 敷根郷、福山郷、国分郷、清水郷、東襲山郷および牛根郷の一部
  • 明治4年7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により鹿児島県の管轄となる。
  • 明治5年(1872年) - 日向国諸県郡下財部村(財部郷)の所属郡が本郡に変更。(54村)
  • 明治12年(1879年2月17日 - 郡区町村編制法の鹿児島県での施行により、行政区画としての囎唹郡(第1次)が発足。「加治木郡役所」が姶良郡反土村に設置され、同郡および桑原郡とともに管轄。
  • 明治20年(1887年5月9日 - 囎唹郡のうち上記4郷余の区域をもって東囎唹郡が、上記5郷余の区域をもって西囎唹郡がそれぞれ発足[3]。同日囎唹郡(第1次)廃止。

囎唹郡(第2次)・曽於郡

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1.財部村 2.末吉村 3.市成村 4.岩川村 5.恒吉村 11.東志布志村・西志布志村・月野村 12.大崎村・野方村 13.松山村(紫:鹿屋市 桃:曽於市 赤:志布志市 青:合併なし)
  • 明治30年(1897年4月1日 - 郡制の施行のため、「岩川郡役所」が管轄する東囎唹郡・南諸県郡の区域をもって囎唹郡(第2次)が発足[4]。以下の各村が所属。(11村)
  • 明治31年(1897年)4月1日 - 郡制を施行。
  • 大正2年(1913年7月1日 - 東志布志村が町制施行・改称して志布志町となる。(1町10村)
  • 大正11年(1922年10月1日 - 末吉村が町制施行して末吉町となる。(2町9村)
  • 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
  • 大正13年(1924年)4月1日 - 岩川村が町制施行して岩川町となる。(3町8村)
  • 大正15年(1926年
    • 4月1日 - 財部村が町制施行して財部町となる。(4町7村)
    • 7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
  • 昭和11年(1936年1月1日 - 大崎村が町制施行して大崎町となる。(5町6村)
  • 昭和30年(1955年
    • 1月20日 - 岩川町・恒吉村・月野村が合併して大隅町が発足。(5町4村)
    • 4月1日 - 野方村の一部[注 3]が西志布志村に、一部[注 4]が大隅町に、残部が大崎町にそれぞれ編入。(5町3村)
  • 昭和31年(1956年)4月1日 - 市成村が肝属郡百引村と合併して輝北町が発足。(6町2村)
  • 昭和33年(1958年)4月1日(8町)
    • 松山村が町制施行して松山町となる。
    • 西志布志村が町制施行・改称して有明町となる。
  • 昭和47年(1972年)4月1日 - 曽於郡へ改称。
  • 平成17年(2005年)7月1日 - 大隅町・財部町・末吉町が合併して曽於市が発足し、郡より離脱。(5町)
  • 平成18年(2006年)1月1日(1町)
    • 松山町・志布志町・有明町が合併して志布志市が発足し、郡より離脱。
    • 輝北町が鹿屋市・肝属郡串良町吾平町と合併し、改めて鹿屋市が発足、郡より離脱。

変遷表

自治体の変遷
さらに見る 明治22年, 明治22年 - 明治45年 ...
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脚注

参考文献

外部リンク

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