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諸県郡

かつて日本の宮崎県(日向国、一部は現在の鹿児島県)にあった郡 ウィキペディアから

諸県郡
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諸県郡(もろかたぐん)は、宮崎県日向国、一部は現在の鹿児島県)にあった

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宮崎県諸県郡の位置[1]

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

明治時代以前

古代

郡名は記紀に、「日向国諸県君の女、名は髪長比売、其の顔容は麗美」(『古事記』応神段)、「諸県君泉媛、大御食を献る」『日本書紀』巻七景行天皇十八年三月条)、「日向国に嬢子有り。名は髪長媛。即ち諸県君牛諸井の女なり」(『日本書紀』巻十応神天皇十一年是歳条)などの記事が見られ、その起源の古さをうかがわせる。「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、この諸県君(日向国造であったとの説もある)の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が諸県君の主領域と一致したかは不明である。郡名が明確に確認できるのは「続日本紀」からであり、「延喜式」において、ほぼその後の領域が確定された。和名類聚抄では「牟良加多(むらかた)」と訓じられ、郡には八つのが存在しており、県田郷、八代郷、瓜生郷、財部郷、大田郷、春野郷、穆佐郷、山鹿郷が記載されている。

式内社

延喜式神名帳に記される郡内の式内社

さらに見る 神名帳, 比定社 ...

    中世・近世

    中世には、宇佐宮領の諸県荘となった現在の国富町・綾町を除き、この領域を中心に島津荘が開拓された。以来、江戸期まで領域に変動はない。1587年天正15年)の豊臣秀吉による九州征伐後、島津氏は薩摩・大隅に加えて本郡を安堵された。

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    明治時代以降

    要約
    視点

    近世以降の沿革

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    4分割された諸県郡の範囲(青:北諸県郡 黄:南諸県郡 赤:東諸県郡 桃:西諸県郡)
    所属町村の変遷は北諸県郡#郡発足までの沿革東諸県郡#郡発足までの沿革西諸県郡#郡発足までの沿革南諸県郡#郡発足までの沿革東囎唹郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
    • 旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領西国筋郡代が管轄[2]。(1町141村)
      • 後の北諸県郡域(41村) - 薩摩鹿児島藩(都城郷・勝岡郷・山之口郷・高城郷・高崎郷および野尻郷の一部)
      • 後の東諸県郡域(1町30村) - 薩摩鹿児島藩(穆佐郷・倉岡郷・高岡郷・綾郷)、幕府領、旗本領[3]、日向高鍋藩
      • 後の西諸県郡域(45村) - 薩摩鹿児島藩(高原郷・小林郷・須木郷・飯野郷・加久藤郷・馬関田郷・吉田郷および野尻郷の残部)
      • 後の南諸県郡域(24村) - 薩摩鹿児島藩(松山郷・志布志郷・大崎郷)
      • 後の東囎唹郡域(1村) - 薩摩鹿児島藩(財部郷のうち下財部村)
    • 慶応4年
    • 明治3年(1870年) - 旗本領が日田県の管轄となる。
    • 明治4年 (1871年)
    • 明治5年 (1872年)
      • 4月 - 下財部村の所属が大隅国囎唹郡(第1次)に変更
      • 5月15日1872年6月20日) - 美々津県の管轄区域の一部(野尻郷・須木郷および小林郷のうち東方村)が都城県の管轄となる。
    • 明治6年(1873年1月15日 - 全域が宮崎県(第1次)の管轄となる。
    • 明治9年(1876年8月21日 - 第2次府県統合により鹿児島県の管轄となる。
    • 明治12年(1879年2月17日 - 郡区町村編制法の鹿児島県での施行により、行政区画としての諸県郡が発足。郡役所が都城に設置。
    • 明治16年(1883年5月9日 - 宮崎県(第2次)が発足し、諸県郡のうち同県に所属する区域をもって北諸県郡が、鹿児島県に所属する区域をもって南諸県郡がそれぞれ発足。同日諸県郡廃止。

    変遷表

    明治22年(1889年5月1日町村制施行以降の変遷。

    自治体の変遷
    さらに見る 明治22年以前, 明治22年 ...
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    行政

    歴代郡長
    さらに見る 代, 氏名 ...

    脚注

    参考文献

    関連項目

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