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木下貞一
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木下 貞一(きのした ていいち、1919年3月20日 -2007年[1]12月5日 )は、静岡県[2]出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。旧姓は松本 貞一(まつもと ていいち)[2]。
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来歴・人物
浜松一中1年の時に旧制東邦商業(現:東邦高等学校)へ転校[2]。選抜中等学校野球大会出場3回、全国中等学校優勝野球大会出場1回、内1939年の選抜中等学校野球大会では優勝している。
若林忠志に勧誘され、1941年に阪神軍に入団[3]。16試合に登板し、4勝4敗、防御率1.58を記録した。翌1942年から内野手としての出場がほとんどになり56試合に出場している。同年オフに退団した。この時、養子に入り木下姓となった。
戦後は、愛知産業に就職していた[2]。1953年に名古屋ドラゴンズに入団しプロ復帰[2]。登録は外野手となった。主に代打で活躍した。翌1954年オフに引退した[2]。
少年野球時代(笠井小学校)は、松井栄造(元城小学校)との対戦もあった。
引退後は妻の実家である三共化学陶磁器製作所を経営した[2]。
詳細情報
年度別投手成績
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 名古屋(名古屋ドラゴンズ)は、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更
背番号
- 21(1941年 - 1942年)
- 5(1953年 - 1954年)
登録名
- 松本 貞一 (まつもと ていいち、1941年 - 1942年)
- 木下 貞一 (きのした ていいち、1953年 - 1954年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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