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本多勝行
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本多 勝行(ほんだ かつゆき)は、江戸時代前期の大名[1]。播磨姫路新田藩主、大和国郡山新田藩主。本多政勝の長男。
生涯
要約
視点
寛永12年(1635年)、本多政勝の長男として生まれる[2]。政勝は当時姫路藩支藩(姫路新田藩)4万石の藩主であった。
寛永15年(1638年)11月20日、平八郎家宗家当主である姫路藩主・本多政朝が死去した[3]。政朝の嫡男である政長[4]は幼少であったため[3]、寛永16年(1639年)3月3日に本多政勝が平八郎家宗家を継承することが認められた[3][5][注釈 1]。この際、政勝の旧領4万石は勝行(5歳)に与えられ、所領は大和国6郡(葛上郡・葛下郡・高市郡・十市郡・忍海郡・平群郡)内に移された[2]。
江戸城内紅葉山東照宮の石垣修復にたずさわったため、正保4年(1647年)12月8日に将軍家から褒賞として、勝行の家臣たちに時服・羽織・白銀を与えられている[2]。
慶安3年(1650年)6月11日、16歳で死去した[2]。無嗣のために絶家となり[2]、その遺領は政勝に還付された。
その後承応2年(1653年)に勝行旧領の4万石は、義兄の政長に3万石、政信に1万石と分割されて与えられている[3][5][4][6]。
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脚注
外部リンク
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