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本多政信
1634-1662, 江戸時代前期の大名。大和郡山新田藩第2代藩主。政信系本多家初代。 ウィキペディアから
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本多 政信(ほんだ まさのぶ)は、江戸時代前期の大名[1]。大和郡山藩支藩(部屋住み領)主[注釈 1]。政信系本多家初代。
生涯
要約
視点
寛永11年(1634年)[1]、播磨姫路藩主・本多政朝の三男として、姫路に生まれる[2]。政朝は本多忠勝の長男である忠政の二男で、忠勝系本多家(本多平八郎家)の宗家の当主であった。
父の政朝は、寛永15年(1638年)11月20日に死去した[3]。政朝の嫡男(政信の兄)である政長[4]は幼少であったため[3]、寛永16年(1639年)3月3日に政朝の従兄弟である本多政勝(姫路藩支藩主)が平八郎家宗家を継承することが認められた[3][2][注釈 2]。この際幕命によって政長・政信兄弟は政勝の養子となり[3][2]、政長が政勝の嗣子とされた[3]。また、このときに平八郎家宗家は姫路から大和郡山藩に移され、政勝は15万石を治めることとなった[2]。政勝はさきに政朝から姫路において部屋住み領[6]として4万石を分知されていたが[注釈 3]、この4万石の領知は政勝の実子・本多勝行に与えられて大和国に移された[3][5]。
正保元年(1644年)11月28日、政信(11歳)は将軍・徳川家光に御目見した[2]。
寛文11年(1650年)、本多勝行が16歳で死去[3][6][5]。承応2年(1653年)、勝行の旧領である4万石は政長・政信兄弟に分けられた[3][2]。政信は大和国6郡(葛上郡・忍海郡・平群郡・十市郡・葛下郡・高市郡)内で1万石を与えられ、郡山城内に住した(部屋住み)[2]。明暦2年(1656年)9月11日、はじめて領地入りの暇を与えられる[2]。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下に叙せられ[2]、監物を称した[2]。
寛文2年(1662年)4月20日、29歳で死去した[2]。嗣子がなかったため、政勝の子・本多忠英[注釈 4]が末期養子となって跡を継いだ[8]。
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系譜
脚注
外部リンク
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