トップQs
タイムライン
チャット
視点
本多敏樹
日本の政治家 ウィキペディアから
Remove ads
本多 敏樹(ほんだ としき、1874年2月27日[1] - 1968年2月8日)は、日本の政治家。第2-4代岡崎市長(3期)。
経歴
愛知県岡崎市生まれ[2]。学習院、札幌農学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学に入学。大学を中退したあと、1904年(明治37年)、陸軍歩兵少尉として日露戦争に従軍。勲六等単光旭日章受章。退役後、北海道庁技師に任官し未開地開発にとりくむ。勲五等瑞宝章を受章[3]。
1918年(大正7年)7月12日、郷里岡崎の初代市長・千賀又市が公務執務中にたおれ、その日のうちに49歳で死去。市が設けた協議会や委員会が打診した新市長の候補者はいずれも固辞し、米騒動による混乱をはさみ(岡崎市では8月14日、15日に発生)、選考作業は難航した。結局市内に好適な人物は見あたらず、北海道にいる本多と香川県丸亀高等女学校教諭の岡田辰雄が最終的な候補とされた[4]。11月12日、本多が第2代市長に選任された。12月4日、裁可[5]。12月17日、市長就任[6]。
1919年(大正8年)3月、六ツ美村(現・岡崎市中之郷町)の浄妙寺の女性と結婚[7]。
1922年(大正11年)、三河郷友会長に就任[3]。3期市長を務め、1930年(昭和5年)12月5日、任期満了で退任した[8]。
戦後は1947年(昭和22年)4月5日に行われた第1回公選岡崎市長選挙に出馬するも落選。1956年(昭和31年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[1]。1958年(昭和33年)11月2日、4選を狙う竹内京治市長の推薦母体である愛市連盟が発足すると、本多は同団体の名誉会長に就任する[9]。翌年の市長選で竹内は僅差で太田光二に敗れる。
Remove ads
主な業績

Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads