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東京劇場

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東京劇場
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東京劇場(とうきょうげきじょう)は、かつて存在した日本の演劇場・映画館。現在の東京都中央区築地4-1-1に立地していた。1974年に閉館・解体され、東劇ビルが竣工、映画館東劇(とうげき)と名を変え松竹マルチプレックスシアターズの直営映画館としてビル内に現存する。現在の定員は435人である。

概要 東京劇場Tokyo Gekijo, 情報 ...

本項では、現在の東劇ビル以前の建物(1930年 - 1974年)に存在した映画館、東京中央劇場(とうきょうちゅうおうげきじょう)および銀座ニュース劇場(ぎんざニュースげきじょう)、東劇バーレスクルーム等についても扱う。

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沿革

  • 1930年3月29日 - 演劇場として開館
  • 1940年前後 - 5階・地階に映画館を併設
  • 1950年12月31日 - 映画館に業態変換
  • 1975年 - 改築・リニューアル再開館

「東京劇場」時代

概要

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初代東京劇場のこけら落としに出演した十五代目市村羽左衛門(写真左)と六代目尾上梅幸 雪暮夜入谷畦道』(三千歳と直侍)より

東京劇場は1930年(昭和5年)3月に演劇場として開業。六代目 尾上菊五郎十五代目 市村羽左衛門六代目 尾上梅幸の3大役者がこけら落とし興行を飾った[1]。築地に一際目立つ重厚な建物で知られ、歌舞伎軽演劇が上演されていた。1945年(昭和20年)、歌舞伎座東京大空襲で焼亡したため、東京劇場が歌舞伎の演劇場として選ばれるようになった。戦争終結後の9月には、早くも市川猿之助一座が『黒塚』と『東海道中膝栗毛』を演じていた[2]。 その後も1951年(昭和26年)に再建されるまでは、東京の歌舞伎の中心だった。

第二次世界大戦を目前とした1940年(昭和15年)前後に、同劇場地階にニュース専門の映画館「銀座ニュース劇場」、同5階に映画館「東京中央劇場」を開館する[3][4]

終戦後、1945年(昭和20年)9月1日には、市川猿之助一座が興行を再開[5]。その5年後の1950年(昭和25年)12月31日、演劇場から映画館に転身している[1]。地階のニュース専門館は、戦後「東劇地下映画劇場」に改称したのち[6]、1955年(昭和30年)12月27日には大映系統の封切館「築地大映」として改めて開館している[7]。同時期に5階には「東劇バーレスクルーム」が開かれ、ジプシーローズの出世舞台となった[8]。1974年(昭和49年)、両館は高層ビル化を前提に閉館した。

データ

  • 所在地 : 東京府東京市京橋区築地4丁目14番地[3][4]
  • 設計:大林組(木村得三郎)、施工:大林組
  • 観客人員数 :
    • 東京劇場 : 1,711名(1957年末[7]
    • 東京中央劇場(5階) : 211名(1942年[3])、279名(1943年[4]
    • 銀座ニュース劇場(地階) : 291名(1942年[3] / 1943年[4]
      • 築地大映(地階) : 903名(1957年末[7]
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「東劇ビル」時代

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東劇が入る東劇ビル

1975年(昭和50年)高層ビル化され竣工。現在では同ビルに松竹本社が入っている。2025年で築50年を迎える。

1970年代においては渋谷東急等とチェーンを組む洋画封切館だったが、その後は独自で小規模のチェーンを構成する映画のチェーンマスターになったり、有楽町地域の松竹東急系のムーブオーバー(続映)や拡大ロードショーに利用されていた。2008年(平成20年)7月に新宿ピカデリーが再オープンして以降は、シネマ歌舞伎METライブビューイングなどの松竹配給のODS(Other Digital Staff)[9]作品のメイン館となることが多い。

2011年(平成23年)3月1日、松竹は映画興行部門をシネマコンプレックス「MOVIX」を運営する松竹マルチプレックスシアターズに継承したため、同社の経営・運営に切り替わった。ただし、MOVIX系のシネコンと同様のサービスは行っていない。

主な上映作品

※( )内は公開年

1975年7月5日オープニング作品はサンシャイン

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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