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松岡辰方
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松岡 辰方(まつおか ときかた) は、江戸時代後期の武士。筑後国久留米藩士。有職故実家。
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生涯
長州藩(山口県)藩士酒井忠良の次男。久留米藩第8代藩主有馬頼貴の正室養源院(長州藩主毛利重就の娘)附の老女であった松岡の名跡を継ぎ、松岡家を興した[1]。韓国の日本史研究者である金炯辰によれば、天明3年(1783年)に高倉家を宗匠とする衣紋会への参加を許された際に「元浪人」と称していることから、その頃には久留米藩に仕官したのではないかとしている[2]。
江戸に住み、塙保己一に国学を、伊勢貞春、高倉永雅に有職故実を学び、寛政5年(1793年)に塙保己一の元で和学講談所が創設されると屋代弘賢と共に初代会頭を務めた[2]。著作は『位階便図』『装束織文図絵』、『冠帽図会』、『織文図会』、『女官装束織文図会』等がある。また、乃木希次(乃木希典の父)に小笠原流を伝授した。また、文政3年(1820年)には衣紋会の江戸における会頭に任ぜられ、息子の行義と共に宗匠である高倉家と江戸の門弟との連絡係を務めた他、高倉家の名代として江戸城において装束に関する指導も行っている[3]。
文政9年(1826年)に徳川家斉が太政大臣に任じられた際に、関連行事の参加者の装束について、屋代弘賢が武家が公家の真似をして武備が疎かになっていると嘆き、新規の採用を抑制して従来の装束にて臨むべきであると主張したのに対し、辰方が武家も公家と同じく廷臣の一員であるにも関わらず大礼の場において武家の装束と称して乱世の遺風による誤った装束を着用し続けるのは間違っており、古法に則って装束を作り直すのが道理であると反論して論争となった(一部は行義が父の代理として反論したと思われる部分もある)[4]。辰方は屋代が言うように武家が武備を重視するのは当然であるとしつつも、官位相当の装束が定められている以上、それに則した装束で儀式に臨むべきではないかと述べ、一方の屋代も今の大礼の装束は中古(平安時代中期以降)の頃のもので上代(六国史あるいは延喜式までの古代律令制)のものではないとして衣紋道そのものへの批判に踏み込む一方、現在の武家の装束は徳川家康が公武分離の観点から定めたもので辰方の主張は江戸幕府への批判であると反論、他の国学者の間でも様々な意見が出されたが、この議論自体は決着がつかないまま終わった[5](なお、屋代との論争の影響を受けたためか、辰方没後の行義は次第に屋代と同様に上古の制度を重視する方向に転換している[6])。
天保11年(1840年)死去。一説には天保14年(1843年)死去とも。享年77歳。子の行義、孫の明義も家学を継ぎ故実家となった。
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出典
参考文献
外部リンク
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