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松平定綱

江戸時代前期の大名。下総山川藩、常陸下妻藩、遠江掛川藩、山城淀藩、美濃大垣藩、伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。従四位下・越中守。松平定勝の三男。 ウィキペディアから

松平定綱
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松平 定綱(まつだいら さだつな)は、江戸時代前期の大名下総山川藩常陸下妻藩遠江掛川藩山城淀藩美濃大垣藩伊勢桑名藩の各藩主。定綱系久松松平家初代。官位従四位下越中守徳川家康の甥に当たる。

概要 凡例松平定綱, 時代 ...
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生涯

松平定勝の三男として誕生した。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。

慶長元年(1596年)、荒川弘綱荒川義広子、3千石)の養子となり家督を継いだが、慶長4年(1599年)家康の命により荒川姓から松平姓に復した。

慶長7年(1602年)、初めて家康に拝謁し、2代将軍・秀忠に仕えるよう命ぜられた。慶長9年(1604年)、下総国山川領のうち5千石を賜わった。慶長12年(1607年)、従五位下・越中守に叙任。慶長14年(1609年)、計1万5千石に加増され大名となった。大坂の陣では書院番頭として出陣し、その功により元和2年(1616年)、常陸国下妻藩2万石に加増転封された。元和4年(1618年)に遠江国掛川藩3万石に転じ、さらに元和9年(1623年)には山城国淀藩に移され3万5千石を賜う。淀では淀城の修復を行うよう命じられた。寛永10年(1633年)に美濃国大垣藩6万石へ転じ、同地に菩提寺の徳秀寺を建立した。翌年、従四位下に昇進。さらに寛永12年(1635年)、5万石の加増を受けて、伊勢国桑名藩に入る。

慶安4年(1651年)、江戸で卒去した。享年60歳。江戸深川霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ送られ同地に埋葬された。寛政9年(1797年)に鎮国大明神の神号を追祠される。正室は浅野長政の娘で、寛永10年(1633年)に卒去しており、智相院殿光誉馨安樹清大姉の戒名を贈られ霊巌寺に葬られた。

大正6年(1917年11月17日大正天皇の特旨により従三位が贈られた[1]

定綱は同時代の文化人として知られた木下勝俊小堀政一林羅山らと交流があり、定綱自作の詩歌が彼ら文化人の作品と共に『政餘雕玉』に掲載されている。

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系譜

父母

正室

側室

  • 曜安院 - 浅井氏の娘

子女

参考文献

  • 渡辺憲司『近世大名文芸圏研究』(八木書店)

脚注

関連項目

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