トップQs
タイムライン
チャット
視点
板谷広当
江戸時代中期の画家 ウィキペディアから
Remove ads
板谷 広当(いたや ひろまさ、享保14年(1729年) - 寛政9年8月21日(1797年10月10日))は、日本の江戸時代中期に活躍した、江戸幕府の御用絵師。大和絵の一派・住吉派から別れた板谷派の初代。幼名は広度 (ひろのり)。通称は慶舟、のち桂舟。そのため板谷慶舟(桂舟)とも、名前と合わせて板谷慶舟(桂舟)広当とも呼ばれる。

略伝
尼崎藩青山大膳亮の家臣・板谷次郎兵衛の子として生まれる。寛保元年(1741年)13歳から住吉家4代住吉広守に入門。青山氏のもとで寛延4年(1751年)2人扶持、御勘定所見習。宝暦9年(1759年)御徒士小姓に取り立て、絵師を仰せ付けられ剃髪、慶舟に改名。安永2年5月6日(1773年6月25日)広守の隠居にあたり、幕府の許可を得て青山氏から出て住吉家の家督を相続し、扶持・屋敷と共に継いだ。同年6月1日、徳川家治にお目見え。青山氏からの2人扶持は、長男の岩之助(住吉廣行か)が継ぎ、その後広当の三男と思われる慶珉が受け継ぐ(その後は不明)。安永6年(1777年)に住吉姓に改める。 しかし、廣行が無事成長すると天明元年12月25日(1782年2月7日)家督・扶持・屋敷を廣行に渡し、再び板谷姓に戻る。同2年2月8日新規御抱えとなり、5人扶持と赤坂丹後坂に屋敷を与えられ、奥御用を仰せ付けられる。以後、板谷家は狩野家、住吉家と共に代々奥御用を勤める家柄となる。
尾張徳川家にも重用され、9代当主・徳川宗睦の命で廣行と共に「東照宮縁起絵巻」を制作する。ただこの頃広当は他所で、自分は尾張徳川家に重用された大家で、席画の際には高価な金銀泥箔絵絹なども惜しむことなく使える、などと吹聴する。尾張藩はこの時藩政改革の真っ最中であり、宗睦が奢侈に流れたとの風聞が立つのは都合が悪いため、一時広当と宗睦は疎遠になっている。広当は自らの舌禍が招いたこととはいえこれを挽回するために、尾張藩主の菩提寺である建中寺に「釈迦三尊・五百羅漢」寄進を尾張藩に申し入れ、しばらく後に宗睦との関係は修復している[1]。寛政7年 (1795年) から桂舟と号した。翌9年に病没、享年69。戒名は澄性院清江桂舟居士。菩提寺は南青山の梅窓院。板谷家自体は息子の板谷慶(桂)意広長が継いだ。以後、板谷家では、桂舟と桂意の号を交互に使用している。
Remove ads
作品
Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads