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柏田盛文
日本の政治家、教育者 ウィキペディアから
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柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。
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鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。
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経歴
薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり[1]、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。
鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。1881年(明治14年)に慶應義塾を卒業して、帰郷し鹿児島へ戻り県会議員になる。後に中江篤介、西園寺公望らと『東洋自由新聞』を創刊し自由民権運動を主張。自由党創立時には幹事として敏腕をふるった。1887年(明治20年)旧制第四高等学校校長となり衆議院議員、千葉県知事を経て文部次官に。その後、茨城県知事、新潟県知事も務めた。
栄典
著作
- 『官余三昧』 1907年11月
- 『天飆遺響』 柏田哲男編、1911年6月
脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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