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植松雅言
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植松 雅言(うえまつ まさこと)は、江戸時代後期の公家、明治時代の華族。参議・東園基貞の二男[注 1]。
経歴
山城国京都で生まれる。修理権大夫・植松雅恭の養子となる[1][3]。天保11年(1840年)昇殿を許された[3]。安政5年(1858年)廷臣八十八卿列参事件に加わり、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変では長州藩士のため画策した[3]。慶応2年8月(1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり差控となる[3]。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古を迎え、慶応4年2月20日(1868年3月13日)参与に任じられた[4]。その後、神祇事務局権判事、同判事加勢、神祇官判事、氷川社遷宮御用掛、神祇権大祐などを歴任し、明治4年1月18日(1871年3月8日)免本官となった[3][4]。
系譜
脚注
参考文献
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