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武内桂舟
明治から昭和期にかけての挿絵画家、日本画家。 ウィキペディアから
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武内 桂舟(たけうち けいしゅう、文久元年10月11日[2][3](1861年11月13日) - 昭和17年(1942年)1月3日[2] / 昭和18年(1943年)1月3日[1][4][註 1])は、明治・大正期の浮世絵師、挿絵画家。
来歴
要約
視点
本名は武内
明治20年(1887年)頃、尾崎紅葉、山田美妙、巖谷小波らの文学結社「硯友社」に参加し挿絵を描き、とりわけ尾崎紅葉とはコンビとされた。殊に明治30年代に読売新聞に連載された「金色夜叉」の挿絵は好評を得て、桂舟の名は全国的に広まった[1]。そしては尾崎紅葉の小説には桂舟の挿絵を欠かせないとまで評されるようになる[7]。

明治24年(1891年)、巖谷小波のお伽噺『こがね丸』の挿絵を切っ掛けに児童文学の挿絵に傾倒、「やまと新聞」や博文館発行の雑誌「少年世界」、同じく博文館発行で巌谷小波編の叢書「日本昔噺」など単行本などの挿絵を多く描いている。雑誌「少年世界」に掲載された挿絵は明治維新後では最も早い時期に「児童向け挿絵」として描かれたものの一つであり、現代日本の「絵本作家」の元祖的存在である。
また、明治30年代には博文館の依頼により、「葉桜」、「初桜」、「夜桜」という大錦の配り物を描いている。これは接吻しながら抱擁する場面を描いた春画で、「葉桜」では、橋の上から落下する男女などを描いており、斬新な構図であった。この頃の桂舟は富岡永洗、水野年方と共に明治挿絵界の三大家と評されている[1]。挿絵の仕事で生活も安定した桂舟は、硯友社から近い靖国神社の裏、麹町四番町一番地に家を買い、以後生涯ここに住んでいた。硯友社の忘年会・新年会にも使われ、作家連中のサロンとしての場を提供した。 尚、芝神明榮太楼の銘菓「江の嶋最中」は明治35年に尾崎紅葉が名付けたものであるが、その掛け紙は桂舟によるものが今なお使用されている[8]。
大正3年(1914年)に口絵からは引退し、薩摩焼の陶器画にも新機軸をだし、晩年は肉筆画を描いたり、佐賀人形の制作にあたったりして余生を過ごした。古代人形の精密な描写を絹本に描き、昭和12年(1937年)には「御所人形図」が貞明皇太后の御用品となっている[4]。また、桂舟は天ぷらの名人を自称して硯友社の同人たちに振るまい、『絵画叢誌』第208号(明治37年6月)には「桂舟と天麩羅」なる記事が載っている。しかし、本人は油で揚げるだけで、下拵えは桂舟夫人ら家人が全てやったため、家族はとても迷惑だったという[9]。こうして長い余生を楽しんだ後、82歳で肺炎で没した。法名は硯精院釈桂舟居士。菩提寺は当時四谷鮫河橋にあった正見寺で、現在は中野区上高田に移転し、桂舟の墓も現存する。
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作品
- 「椀久物語第二部」 錦絵 石川県立美術館所蔵
- 「初卯」 錦絵 石川県立美術館所蔵
- 「花ぐもり」 錦絵 ムラー・コレクション
- 「冬日」 錦絵 ムラー・コレクション
- 「最後之大勝」 錦絵 プーシキン美術館所蔵


- 「東京・青山」 絹本著色 六曲一隻押絵貼屏風のうち1面 172.5x84.8cm 豊川稲荷蔵 1905年(明治38年) - 徳富蘆花のベストセラー『不如帰』の5つの場面を、5人の画家が絵画化したもの(第1扇は山岸荷葉による題字)。桂舟は第6扇、浪子の墓前で死を悼む武男と義父の場面を担当。元は本郷座による舞台化の際に制作された絵看板だったが、後に本郷座座主・阪田庄太が屏風に仕立て豊川稲荷に奉納された[10]。
ギャラリー
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脚注
参考資料
外部リンク
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