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松本楓湖

明治から大正期にかけての日本画家 ウィキペディアから

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松本 楓湖(まつもと ふうこ、天保11年9月14日1840年10月9日) - 大正12年(1923年6月22日)は、幕末から大正時代の尊皇家日本画家

来歴

要約
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松本楓湖の墓(全生庵

天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村[1](のちの稲敷郡新利根町寺内、現在の茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。名は敬忠。幼名は藤四郎、通称は藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。

楓湖は幼いころから絵を好み、一般に人物を描くのに右向きの顔ばかりで左向きの顔は容易に描けないものだが、楓湖は左右どちらも自在に描けたという。最初息子が絵師になるのを反対していた父もこれを見て画人になるのを許し、数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師歌川国貞への弟子入りを頼むが、断られて帰国している。

2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩御用絵師沖一峨に学ぶ。一峨は狩野派琳派南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画「天人図」などを描く。一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改めた。この頃から武田二十四将図をモチーフとする作画を開始。

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板垣駿河守信方肖像 安政7年筆
(松本楓湖画、板垣退助揮毫)

入塾して5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。自身も剣術を修め、水戸藩武田耕雲斎藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。元治元年(1864年天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。

慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。明治元年(1868年)、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門、画号を楓湖に改める。画号の由来は、郷里が霞ヶ浦に近く、その一入江が通称「カエデ湖」と呼ばれていたことに因む。

明治10年代には、浅草の自宅に安雅堂画塾(あんがどうがじゅく)を創設し、今村紫紅(いまむら しこう)、速水御舟(はやみ ぎょしゅう)、小茂田青樹(おもだ せいじゅ)など非常に多くの画家を世に送り出した。

画道に専心する一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙竹本石亭月岡芳年五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻62図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。

明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。明治21年から明治27年には自由民権家末広鉄腸(旧宇和島藩士)らの小説の木版口絵を手がけており、政治小説などの口絵初期のもので白黒のものなどを描いている。

明治29年(1896年)、東京深川の3人の絵師により設立され、のちに新傾向派の青年画家の拠点となる巽画会(たつみがかい)が設立され、楓湖はその顧問をつとめた。同会には鏑木清方はじめ、岡倉天心と決裂した小竹兄弟や上村松園菊池契月ら京都の画家まで参加するほどであった。

明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。

大正12年(1923年)6月22日歿。享年82。墓所は東京都台東区谷中全生庵

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画風

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山本勘助画像(部分、「武田二十四将図」のうち)

楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われる。しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられる。また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められる。また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立つ。また、旧派の画家と見做されがちであるが、保守的な日本美術協会には反対している。

門人

明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、約400人とも言われる門下生を輩出した。本人は師・容斎から受け継いだ自由放任主義を貫き、自ら“投げやり教育”と言っていたが、初心者には親切で温情に富んだ指導をしたという。また、楓湖や容斎が模写した古名画の粉本模写を奨励し、モデルを用いた人物写生も行った。主な門下生に村岡応東中島光村今村紫紅牛田鷄村速水御舟島崎柳塢鴨下晁湖高橋廣湖前田錦楓小茂田青樹村上鳳湖岩井昇山松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖木本大果中島清之高橋松亭(甥)、富取風堂上原古年田中以知庵永峰秀湖坂巻耕漁大久保楓閣森作湖仙などがいる。

代表作

日本画

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ギャラリー

口絵

  • 『花間鴬』前中後 末広鉄腸金港堂版 明治21年
  • 『風流仏』前後 幸田露伴作 吉岡書籍店版 明治22年
  • 『猿面冠者』 山田美妙春陽堂版 明治24年
  • 『いちこ姫』 山田美妙作 金港堂版 明治25年
  • 『東洋義民佐倉宗吾郎』 桃川燕林博文館版 明治27年

脚注

関係資料

外部リンク

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