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水野忠寛

日本の江戸時代の大名、駿河沼津藩の第6代藩主 ウィキペディアから

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水野 忠寛(みずの ただひろ)は、江戸時代後期の旗本大名駿河沼津藩の第6代藩主。

概要 凡例水野忠寛, 時代 ...
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生涯

文化4年(1807年)11月4日、沼津藩水野家分家の旗本(浜町水野家)である水野忠紹(2代藩主水野忠成の次男)の子として生まれる。文化12年(1815年)11月4日に家督を継いで旗本となる。天保12年(1841年)11月11日から江戸城西の丸に出仕し、天保14年(1843年)12月16日に従四位下、河内守に叙任する。弘化3年(1846年)8月12日に小姓頭取に任じられた。

安政5年(1858年)に本家の第5代沼津藩主である水野忠良が死去したため、その家督を継いだ。折しも幕府では第13代将軍・徳川家定の後継者をめぐって井伊直弼徳川斉昭が対立していたが(将軍継嗣問題)、忠寛は直弼に協力して徳川慶福(家茂)の擁立に貢献した。そのため、安政5年(1858年)10月9日には奏者番に任じられ、10月26日に出羽守に転任となった。安政6年(1859年)3月9日には側用人に任じられ、4月には下田の警備を免除されるなど、直弼から並々ならぬ恩恵を受けている。

しかし桜田門外の変で直弼が暗殺され、さらに直弼によって追放されていた一橋派が幕政に復帰すると、直弼与党であるとして文久2年(1862年)5月29日、全ての役職を辞職に追い込まれ、閏8月20日には養子の忠誠に家督を譲って隠居することとなった。このとき、右京大夫に転任している。

明治7年(1874年)1月5日に死去した。享年68。

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系譜

父母

  • 水野忠紹(実父)
  • 貞光院 ー 飯島氏(実母)
  • 水野忠良(養父)

正室

  • 牧野忠救の娘

養子

出典

  • 沼津市立駿河図書館編「御代々略記 沼津藩水野家年代記」
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