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池田喜生
江戸時代中期から後期の旗本。従五位下但馬守。奥平昌敦の次男。池田氏福本領5代 ウィキペディアから
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池田 喜生(いけだ よししげ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本。官位は従五位下但馬守。
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略歴
延享2年(1745年)、豊前国中津藩主・奥平昌敦の次男として誕生。幼名は保次郎。母は牧野貞通の娘・菊子(心源院)。奥平昌鹿の同母弟にあたる。
のちに播磨国福本藩(鳥取藩の支藩。実際には相続分与などの1万石割れのため、交代寄合)の4代当主池田喜以は庸熈を婿養子に迎えていたが、庸熈の死去によって後継者を失っていた。家を継承すべく喜生が婿養嗣子に望まれ、喜以の娘(元・庸熈の室)を室とし婿養子となった。
安永元年(1772年)4月10日、喜以の辞仕に伴い家督を継ぐ。寛政3年(1791年)7月1日、大番頭となり、同年12月16日、従五位下但馬守に叙任した。寛政7年(1795年)12月12日には伏見奉行となった。
後継者として婿養子入りした喜生であったが、喜生自身にも後継者がいなかった。一方、先代当主の喜以には、実子の池田政貞がいた。分家の旗本家[1]を継いでいたこの政貞の娘を喜生は養女とし、池田輝名を婿養子に迎えて後嗣とした。しかし輝名は喜生より先に死去してしまったため、輝名の子の喜長を後継者とした。
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系譜
脚注
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