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沼澤聖一

日本のプロゴルファー (1945-) ウィキペディアから

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沼澤 聖一(ぬまざわ せいいち、1945年12月10日 - )は、宮城県仙台市出身のプロゴルファー。 

概要 沼澤 聖一Seiichi NUMAZAWA, 基本情報 ...

女優の篠ひろ子、その夫である直木賞作家の伊集院静は義弟。また実弟にゴルフクラブ設計家の沼澤雄二、甥に元プロサッカー選手青山隼がいる。

人物

要約
視点

東北学院高校時代は1962年の全国高校ゴルフ選手権個人・男子で猛暑にもかかわらず粘り強さを発揮し、三上法夫を抑えて初出場初優勝[1]1963年の同大会では午前のラウンドを78にまとめた後、午後のインでは1アンダーの35、アウトも1番から7番まで連続パーで140台が期待されたが8番のショートホールでバンカーショットをミスしてダブルボギー[1]。9番でもボギーを叩いたが、通算152ストロークは大会新スコアを記録し、戸張捷山田健一、中学生の入江勉を抑えて史上2人目の連覇を達成[1]

1964年に入学した日本大学ゴルフ部では西田升平と同期で山田の1年先輩、高橋信雄の2年先輩に当たり[2] [3]、竹田昭夫監督の下で同期の西田と共に柱となり、猛烈を極めたスパルタ練習を積んで頭角を現す[4]。在学中は副部長を務め[5]日本学生、中日杯関東学生2連覇、朝日杯などで優勝[6]日本オープンでもローアマ争いをし、学生やアマチュアゴルファーの基盤を作る[6]

1966年には戸塚カントリー倶楽部西コースのスクラッチ競技でコースレコード70を出し、同コースで行われた日本学生で優勝[7]

卒業後の1968年10月にプロ入りし[2]1974年にはシード入りを果たす[8]

1972年沖縄テレビカップ(6380ヤード、パー72)では時に56歳5ヶ月と4日、レギュラーの最年長優勝記録を樹立[9]した中村寅吉細石憲二今井昌雪山本善隆橘田規宮本省三新井規矩雄に次ぎ、杉原輝雄村上隆尾崎将司らを抑えての9位に入った[10]。大会は2日間54ホールの忙しくタフな試合であったが、この試合の参加人数などは不明だが、日本中の100数十人のプロが参加し、当時は沖縄返還記念の行事として大々的に開催された[10]

1974年にはブリヂストントーナメントで2位に入ったほか[11]日本シリーズ初出場[12]を果たす。

1975年の沖縄クラシックでは初日を陳健忠&謝永郁中華民国)・日吉・坂下定夫草柳良夫と並んでの4位タイ[13]でスタートし、2日目には草柳・陳健・謝永と並んでの2位タイ[14]に浮上。3日目には北西の風5mで肌寒く、あまり良いスコアが出ない中で3アンダー69[15]をマーク、通算6アンダー[16]210[15]で単独首位[16]に立った[17]。最終日にはアンダーパーは8選手と、全般にスコアは伸びなかった中を手堅くパープレーでまとめ、通算6アンダー282でベテラン勢の追撃を振り切り、内田繁・謝永に3打差付けて優勝[12] [18]。18番の第2打をミスしてグリ一ン手前のバンカーに落としたが、ピン側50cmに寄せる見事なリカバリーでトーナメント初優勝を決め、賞金250万円を獲得[11] [19]鈴村照男、新井に次ぐ3人目の学士プロの優勝となった[12]

その後は全英オープンアメリカPGAツアーオーストラリアツアーアジアサーキット、南米ツアー、南アフリカ・サンシャインツアーなど世界各地を転戦[6]したが、網膜を損傷し、42歳でレギュラーツアーの競技生活を断念[5]

ツアー引退後、豊富な海外ツアー経験などを基に[5]NHKゴルフ解説者を14年間勤め、その後はTBS系解説、ゴルフネットワークなど年間35試合を担当し、2000年にはコメンテーター・オブ・ザ・イヤーを受賞[6]

その後は渋谷109ゴルフスクールを開校したほか、杜の都ジュニアゴルフスクールを立ち上げ[6]、故郷でのジュニア育成などで活躍[5]

現在は沼沢聖一スタジオゴルフ主幹、東京都港区のゴルフスクール「GOLF&FITNESS POINT芝浦」ヘッドプロ[6]

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主な優勝

  • 1975年 - 沖縄クラシック

脚注

外部リンク

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