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山田健一 (ゴルファー)
東京都出身のプロゴルファー ウィキペディアから
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山田 健一(やまだ けんいち、1947年3月24日 - )は東京都出身のプロゴルファー。
来歴
要約
視点
成城学園中学校時代の同級生には後に俳優となる田村亮がいる[1]。
15歳でゴルフを始め[2]、1964年の全国高校ゴルフ選手権では個人戦で4位に入る[3]。
日本大学ゴルフ部では西田升平[4]・沼澤聖一の1年後輩に当たり[5] [6]、竹田昭夫監督のスパルタ指導で頭角を現す[7]。4年次の1968年には全日本学生と関東学生、中日杯を取り[2]、中部銀次郎と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に初めて選出される[8]。卒業後の1969年と1970年には日本アマ、関東アマに勝って鳴り物入りで1973年にプロ入りする[2]。
1969年の日本アマでは入江勉をプレーオフで倒し[9]、1970年には母校の後輩である高橋信雄、入江と共にアイゼンハワートロフィー日本代表に選出されて個人戦10位に入り[8]、1971年には第1回JALオープンと中日クラウンズでベストアマを獲得[10] [11]。
1974年の東京チャリティクラシックでは2日目に1イーグル、7バーディ、2ボギー65のコースレコード・タイを出して26位から一気に青木功と並んでの3位タイに浮上[12]。全日空札幌オープンでは井岡誠と共に3日目に尾崎将司・吉川一雄と並んでの4位タイ[13]に着け、最終日には中村通と並んでの3位タイ[14]に入った。
1975年にゴルフダイジェストトーナメントで宮本省三を破って優勝したものの、最終ラウンドで雨が降り、63ホール打ち切りの変則優勝であった[2]。未完の大器であった山田はこの試合でプロ入り0勝から挽回し[15]、高橋と共にシード入り[16]するが、以後は鳴かず飛ばずで、1977年はシードにもなれない始末であった[2]。
1976年の日本プロマッチプレーでは2回戦で尾崎将司と対戦し、アウトで尾崎から3ダウンも奪って1アップで勝利した[17]。同年の関東オープンでは、尾崎・村上隆・青木・小林富士夫・菊地勝司に次ぎ、安田春雄・新井規矩雄・原孝男と並んでの7位タイに入った[18]。
1978年には奮起し、読売ジャイアンツの多摩川自主トレに参加[2]。王貞治・張本勲・土井正三・柴田勲に交じって体力作りに励み、開幕後はその成果が徐々に現れ、札幌とうきゅうオープンでは森憲二・中村通と並んでの10位タイ[19]、関東プロでは青木・中嶋常幸・横島由一・金井清一・草壁政治・尾崎・謝敏男(中華民国)に次ぐと同時に竹安孝博と並んでの9位タイ[20] [21]に入る[2]。
福岡を襲った水不足の中で行われたKBCオーガスタではブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)ら有力選手が予選落ち[22]したが、山田は初めて4日間回っても疲れをあまり感じず、真冬のトレーニングの成果が真夏に出た形となる[2]。
初日を松田敏博・吉川・菊地・小林・安田・関水利晃、ベン・アルダ(フィリピン)、久保四郎と共に4アンダー68の5位タイ[23]でスタートし、2日目には得意のドライバーと好きなサンドウエッジが冴えて1イーグル、5バーディー、2ボギーの同年初のトップに立ち、2日連続60台となる67の好スコアで鷹巣と並んでの首位タイに躍進[24]。3日目には杉原輝雄・新井・横島・アルダ・鷹巣と共に通算10アンダー206の首位集団を作り[25]、最終日には大詰めになって11アンダーで7人が並ぶ混戦となり、鷹巣・アルダなどが躓く中を「魔の17番」でバーディーを取り[22]、18番をパーに収めて優勝を飾った[2]。
山田は16番でボギーとした時点でジーン・リトラー(アメリカ)、アルダ・鷹巣・久保・宮本康弘・青木と共に11アンダーで並ぶが、17番でバーディーを取った時に「勝てる」と思った[2]。プレーオフのことなどを考えず、「ただバーディーを取りたい」と念じた17番、2打のバンカー越えをサンドウエッジで80cmに寄せてバーディーとし、単独首位となる[2]。18番のティーグラウンドでは膝が緊張から震えるが、水を大量に飲んで、心を落ち着かせたのが功を奏した[2]。
1978年の日本オープンでは中村・尾崎・前田新作・郭吉雄(中華民国)と並んでの9位タイ[26]、1979年の関東プロでは長谷川勝治・尾崎と並んでの4位タイ[27]に入った。
1979年の日本国土計画サマーズでは2日目に野口茂と共に首位呂良煥(中華民国)と1打差の2位タイ[28]に着けるが、連覇を賭けたKBCオーガスタでは初日に4オーバー76の113位と大きく出遅れ[29]、2日目には8オーバーでファジー・ゼラー(アメリカ)や村上・中嶋と共に予選落ちした[30]。
1980年のくずは国際では初日に67をマークして竹安・尾崎直道・尾崎健夫・中嶋と並んでの3位タイ[31]でスタートし、最終日には69をマークして[32]、入江・前田と並んで横島の2位タイ[33]に入った。
ツアープロの傍らで1983年からは日本テレビ解説者としても活躍[34]するが、37歳の時に癌で胃を切除して以来、テイクバックで腹直筋がスイングとの噛み合わせの邪魔をする[35]ようになり、1986年の東北クラシック[36]を最後にレギュラーツアーから引退。
ツアー引退後は解説者のほか、静岡県菊川市のホロンゴルフ倶楽部を設計し[37]、沖縄県宮古島市のシギラベイカントリークラブで支配人も務めた[38] [1]。
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主な優勝
- 1975年 - ゴルフダイジェストトーナメント
- 1978年 - KBCオーガスタ
脚注
外部リンク
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