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浅田英一

日本の特撮演出家 ウィキペディアから

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浅田 英一あさだ えいいち[出典 1]1949年[出典 1]昭和24年〉3月13日[4][5] - )は、日本特撮演出家北海道出身[2][3]

概要 あさだ えいいち 浅田 英一, 生年月日 ...

来歴

学生時代の友人が起業した会社で怪獣ショーの手伝いを行っていた縁で、1973年に『ゴジラ対メガロ』で助監督として東宝特撮作品に参加[出典 2]。その後も中野昭慶川北紘一特撮監督の助監督として多くの作品に参加[2][6]。映画『地震列島』(1980年)でチーフ助監督へ昇格[7]。自らも演出を行っていたが、しばらく東宝特撮作品から離れ『ゾイド』のCMの演出など外部で活動していた[2]

2003年、手塚昌明の強い要望で『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』で特撮監督に抜擢され、再びゴジラシリーズに復帰し特殊技術を担当[4][3]。翌年の『ゴジラ FINAL WARS』の特殊技術も担当している[出典 3]

人物・エピソード

ゴジラ映画の特撮を手掛けることを夢見ていたものの、ミレニアムシリーズでは若い世代が台頭していたこともあり一時は諦めていたが、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』で起用され夢を持ち続けることは大事だったことを感じたと述べている[8]

アナログとデジタルの両方を経験していたことから、どちらか一方にこだわるのではなく、それぞれの良さを活かすことを重視している[8]

ゴジラシリーズの製作を務めた東宝富山省吾は、浅田について中野昭慶と同様に造形物そのものの迫力を出すことができると評している[9]。『東京SOS』監督の手塚昌明は、助監督経験が長く、本編・特撮の両方を経験していることから創意工夫の計算がうまく、前作『ゴジラ×メカゴジラ』と同予算でそれ以上に思わせるボリュームであったと評している[10]。撮影を担当した江口憲一は、浅田はクランク・イン前に各シーンの方法論を細かく打ち合わせし、現場が混乱しないよう割り振りを整理していたため、スケジュールがうまくはまったと語っている[11]。操演の鳴海聡も、浅田は助監督時代からスケジュール感覚が鋭かったと証言している[12]

結婚式の仲人は上司で師弟関係でもある川北が務めている。

ゴジラ対メカゴジラ』では、ブラックホール第3惑星人が正体を現すシーンで毛が生えていく手を担当した[2][13]

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作品

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脚注

参考文献

関連項目

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