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長生院 (浅野長政正室)

戦国時代から江戸時代の女性、尼僧。母はあるいは勝福院(樋口美濃守の娘)。浅野長政の正室 ウィキペディアから

長生院 (浅野長政正室)
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長生院(ちょうせいいん)は、戦国時代から江戸時代にかけての女性、尼僧。浅野長政正室。名は「やや(良々)」または「お祢々[2]」、末津姫(まつひめ)[3]など。晩年は出家して宗玉と名乗る。

概要 ちょうせいいん 長生院, 生誕 ...

略歴

通説では、父は杉原定利で、母は朝日殿杉原家利の娘)とされ、姉ねねとともに、浅野長勝とその後妻で(ややの叔母にあたる)七曲殿の養女となり、ややが安井重継の子長政(長吉)の妻となって、これを浅野家の婿養子として迎え入れたとされる。しかし杉原氏木下氏の系図にややに関する記述がなく、別に浅野氏の系図には、ややの父は浅野長勝で、母はその先妻の勝福院(樋口美濃守の娘)であると記述するものがあり、ややは長勝の実の娘で、ねねとは義理の姉妹だったとする説がある[1][4]

兄弟姉妹に、ねね(豊臣秀吉の正室・高台院)、木下家定、くま(長慶院三折全友室)がいる。長政との間には浅野幸長浅野長晟浅野長重、豊姫(杉原長房室)、女(堀親良室)、智相院松平定綱室)をもうけた。

慶長16年(1611年)、長政(伝正院殿)の死後は出家して、一宝宗玉と号した(長生院は諡号)。また、長重領の真岡2万石のうち3千石を隠居料とした[1]

慶長18年(1613年)、長男幸長にも先立たれる。この際、幸長に男子がいなかったため、世継ぎ争いとなり、三男長重に遺領を継がせるように希望したが、結局、次男長晟が継いだ。

元和2年(1616年)江戸にて死去。葬儀の際に徳川義直より銀100枚が贈呈された。墓は、夫と同じく天目山伝正寺にある。戒名は長生院殿一宝宗玉大姉。

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関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

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