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海北友松

日本、安土桃山時代の絵師 ウィキペディアから

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海北 友松(かいほう ゆうしょう、天文2年(1533年) - 慶長20年6月2日1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師海北派の始祖。姓は源氏、友松は近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪

概要 海北 友松, 生誕 ...
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海北友松

伝記

浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。天文4年(1535年)2歳で父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行。このときに狩野派を学んだとされる。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。

その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。八条宮智仁親王亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。また、交流のあった斎藤利三明智光秀の重臣)は本能寺の変後、三条粟田口で磔刑となった。この利三の遺骸は友人である友松や東陽坊長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職をつとめる真如堂へ葬られた[1]。後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。

墓所は京都府京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。

友松の作品は年記が乏しいため編年が困難である。ただし、署名の特に「友」字の変化と「友松」印の違いが僅かな手がかりとなる。はじめ「友」字が角張っていたのが次第に丸みを帯び、やがて第1画が直立し上へ長く突き出すと同時に、第3,4画も小さな円状になっていく。また「友松」朱文方印は、真四角な印と右辺が弧を描いて外側に張り出す印の2種類あり、前者のほうが先に使用されたと推測される。

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代表作

  • 建仁寺本坊大方丈障壁画 重要文化財 京都国立博物館寄託
    全50面。内訳は、依鉢の間「琴棋書画図」10面、檀那の間「山水図」8面、室中「竹林七賢図」16面、書院の間「花鳥図」10面(内2面消失)、礼の間「雲龍図」8面。慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が、前身の安国寺方丈を本坊方丈として移建する際、障壁画は新調し、その制作を任されたのが友松であった。堂々たる大作であり、制作年がはっきりとした基準作としても貴重である。昭和9年(1934年)の第一室戸台風で大方丈が倒壊したことから、現在の大型の掛け軸に改装された。
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花卉図(妙心寺)
楼閣山水図(MOA美術館)

主な作品

さらに見る 作品名, 技法 ...
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月下渓流図(ネルソン・アトキンス美術館)
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海北友松を演じた人物

(NHK大河ドラマ)|太閤記]](1965年)

脚注

参考文献

外部リンク

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