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満福寺 (栃木県野木町)
栃木県野木町にある曹洞宗の寺院 ウィキペディアから
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満福寺(まんぷくじ)は、栃木県下都賀郡野木町野渡にある曹洞宗の寺院。正式には、山号を西光山、院号を乾亨院、寺号を満福寺という[1]。古河公方ゆかりの寺院である。
歴史
戦国時代の明応元年(1492年)に建立された。古河公方足利成氏の開基、東昌寺2世・能山聚藝の開山と伝えられている[2]。寺伝によれば、もとは臨済宗の寺院であり、本尊も鎌倉円覚寺から移されたが、永正元年(1504年)に曹洞宗に改められた(『古河志』)[3]。
江戸時代に火災があったが、安政元年(1854年)に再建、現在に至る[1]。
戦国時代の連歌師猪苗代兼載の墓があることにちなみ、昭和30年代には兼載が好んだ桜が山門前に植えられており、名所となっている[4]。
文化財
- 足利成氏の墓:足利成氏は第5代鎌倉公方・初代古河公方。享徳の乱にて室町幕府・関東管領上杉氏と争い、享徳4年(1455年)に鎌倉から古河へ移座した。当寺には成氏の墓に関する記録はないが、本寺にあたる熊谷市上之の龍淵寺には、「満福寺に足利成氏と猪苗代兼載の墓がある」との記録が残されている(『古河志』)[3]。野木町指定文化財[5]。
- 猪苗代兼載の墓:猪苗代兼載は、応仁・文明の乱後に京都で活躍した連歌師。親交のあった宗祇とともに『新撰菟玖波集』の撰集を行った。永正7年(1510年)に古河城下で没した。宗祇の弟子宗長が書いた紀行文『東路の津登』によれば、永正6年(1509年)には、古河公方家侍医田代三喜の治療を受けるため、古河に滞在していた。兼載は第2代古河公方足利政氏とも句を交わしている。現在は、三百回忌にあたる文化6年(1809年)に造立された供養塔が残されている[6][7]。野木町指定文化財[5]。
- 満福寺の板碑:境内にある正元元年銘(1259年)の阿弥陀一尊板碑。栃木県内で最古のものと考えられている[5][1]。野木町指定文化財[5]。
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交通
脚注
参考文献
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