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溝口宣俊

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溝口 宣俊(みぞぐち のぶとし)は、江戸時代前期の旗本寄合越後国新発田藩2代藩主・溝口宣勝の三男。分家独立して旗本となり、池之端(池端・池ノ端)溝口家の祖となる。通称は内記。

概要 凡例溝口宣俊, 時代 ...

生涯

元和8年(1622年)に将軍徳川秀忠に初御目見をする。寛永5年(1628年)、父・宣勝の遺領のうち越後蒲原郡の5000石を分与されて寄合に列し、知行地の池之端[1]陣屋を設ける。これにより宣俊を祖とする家は池之端(池端・池ノ端)溝口家と称された。のちに大名同様に参勤交代することを許され、嫡男の宣鎮の代までこの例が続いた。寛文2年(1662年)、下館城の在番を勤める。寛文9年(1669年)に58歳で歿。法名は性真。江戸深川の海福寺に葬られる。以後同寺は同家代々の葬地となった。家督は長男の宣鎮(のぶしげ)が継いだ。

脚注

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