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燕攻略
春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから
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燕・代攻略戦(えん・だいこうりゃくせん)は、秦の統一戦争の一部で秦が燕と代を滅ぼすまでの戦い。
秦王政の暗殺未遂
攻略戦
紀元前227年、秦王政は燕の太子丹による暗殺未遂に激怒し、軍勢を趙方面に進軍させ、中山で駐屯していた王翦と辛勝に燕を攻めさせた。燕は趙の亡命国家の代と連合し、これを迎え撃った。秦軍は易水の西で燕・代連合軍を破った[1][2]。
紀元前226年、王賁が燕の国都薊を攻めた[注 1]。秦はさらに兵を増派して王翦の軍に合流させた。秦軍は丹率いる燕軍を破り、10月[注 2]に薊を陥落させた[3][4]。
『史記』刺客列伝および燕召公世家では、薊陥落後、燕王喜と丹は精鋭軍を率いて東方の遼東へ向かったが、李信が奮迅の勢いで追撃し、丹は衍水の中に身を隠して難を逃れた[5]。遼東に逃げ延びた燕王喜は、代王嘉からの「秦が燕を執拗に追撃するのは太子丹が原因です。大王が太子丹を殺して秦王に献上なされば、秦王の怒りは必ず和らぎ、社稷(国家)は幸いにも永らえることができるでしょう」という書簡を受け、使者を送って衍水に潜んでいた丹を斬首し、秦に献上した[5][6]。結果、秦と燕は一時的に停戦したと思われる。
『史記』秦始皇本紀では薊が陥落した時に丹は討ち取られたとされており[4]、同書、白起王翦列伝では李信が数千の兵を率いて燕軍を破り、衍水で丹を捕らえたとされている[7]。
紀元前222年、王賁と李信を遼東を攻め、燕王喜を捕らえ、燕を滅ぼした。同年、王賁は代軍を破って代王嘉を捕らえ、代を滅ぼした[8][9]。
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脚注
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