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狩野探信 (守道)
狩野派の画家。鍛冶橋狩野家第7代当主 ウィキペディアから
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狩野 探信 (かのう たんしん、天明5年(1785年) - 天保6年12月18日(1836年2月4日))は、日本の江戸時代後期に活躍した狩野派(江戸狩野)の絵師。江戸幕府御用絵師の鍛冶橋狩野家の7代目。先祖に当たる鍛冶橋狩野家2代目の狩野探信守政と区別するため、探信守道とも呼ばれる。狩野探牧(守邦)の長男。弟に邦信(祐清)、子に探淵。幼名は千千代、字は清夫、名は守道、号に興斎。百官名は宮内卿、のち式部卿。
略伝
寛政5年(1793年)7月、部屋住みながら御目見え。寛政8年(1796年)父の隠居に伴い家督を継ぐ。この頃の鍛冶橋狩野家は、同じ奥絵師の木挽町狩野家や中橋狩野家と比べて明らかに劣勢であったが、文政8年(1825年)法眼に叙され、亡くなる前年の天保5年(1834年)御医師並になる。享年51。弟子に沖一峨、目賀多信済、深川水場狩野家の了承賢信、探水守常など。
探信守道は家を再興するため、祖先の狩野探幽に学び、その没骨的彩色法を復活させようとした。一方、江戸時代の狩野派が忌避していた風俗画も積極的に手がけ、浮世絵風の作品も残している。そのため現存する探信守道の作品は専ら大和絵で、僅かな水墨画の遺品も古画の模写が殆どである。
作品
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脚注
参考文献
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