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狩野探信 (守政)

狩野派の画家。鍛冶橋狩野家第2代当主 ウィキペディアから

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狩野 探信(かのう たんしん、承応2年(1653年) - 享保3年10月4日1718年10月27日))は、日本江戸時代中期に活躍した狩野派江戸狩野)の絵師。狩野探幽の三男で、江戸幕府御用絵師の鍛冶橋狩野家の2代目。弟に探雪。妻は狩野常信の娘、子に探船探常

略伝

幼名は千(仙)千代。は守政、通称は図書。探信は号で、別号に忠淵。探幽には既に2人の男子がいたが、いずれも跡継ぎには相応しくなかった。先妻から生まれた長男の五右衛門は勘当され(詳細不明)、八王子正徳年間に死去。妾を母とする次男の道信は、作品も知られるが早世した。探信・探雪は晩年後妻晩から生まれた子であるため、探幽に可愛がられたと言われる。探信4歳と5歳の絵に、探幽が識語や自身の絵を添えた作品が現存している[1]。反面、すでに探幽の養子となっていた狩野益信は別家を余儀なくされている。万治元年(1658年)6歳で、4代将軍徳川家綱に御目見えして御前揮毫。探幽の知行200石を弟と半分ずつ分知され、探幽没した翌年の延宝3年(1675年)に跡を継ぐ。狩野常信・狩野主信らと幕府の御用を多く勤め、晩年の正徳5年(1715年)に法眼に叙される。享年66。墓は池上本門寺

いとこにあたる常信の娘との間に生まれた長男探船が跡を継いだが1728年に43歳で亡くなったため、次男の探常が4代目となっている。しかし、弟の探雪とその子で甥の狩野探牛が相次いで亡くなり、知行は取り上げられてしまう。このため他の奥絵師家に比べ知行高で劣る鍛冶橋狩野家の家運は衰え、同名の7代目狩野探信守道とその弟子沖一峨以外に名手が出ることはなかった。なお、娘は儒学者荻生北渓に嫁いでいるが、19歳で亡くなっている[2]

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作品

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脚注

参考文献

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