トップQs
タイムライン
チャット
視点
狩野永敬
、江戸時代前中期に活動した狩野派の絵師 ウィキペディアから
Remove ads
狩野 永敬(かのう えいけい、寛文2年(1662年) - 元禄15年9月18日(1702年11月7日))は、江戸時代前中期に活動した狩野派の絵師。京狩野家3代目狩野永納の長子で、永敬は4代目。息子は5代目となる狩野永伯、弟に狩野永梢。本姓は藤原、通称は縫殿助、求馬。号に仲簡子・幽賞軒、松陰子。
略伝
狩野永納の子として京都に生まれる。貞享元年(1684年)6月末頃家督を譲られ、当主が名乗る縫殿助を称す。父祖と同様に九条家と深く繋がり、九条家から養子に入った二条綱平に伺候、綱平を介し尾形乾山とも交流した。更に、『桂宮日記』(宮内庁書陵部蔵)で頻繁に登場し、ときの当主京極宮文仁親王に気に入られていたとわかる[1]。下記のような本格的な作品を描く他に、『本朝孝子伝』の挿絵も手掛けている。しかし、元禄15年に41歳で急逝。墓所は泉涌寺。弟子に高田敬輔など。
温雅な大和絵風の作品もあるが、代表作の実相院の障壁画では狩野永徳・山楽・山雪ら先祖への回帰し、よりマニエリスティックな画風を展開してる。その肥痩を強調したうねるような墨線の使用は、弟子の敬輔、その弟子の曾我蕭白へと受け継がれた。
作品
Remove ads
脚注
参考文献
関連項目
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads