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狩野永納

江戸時代の絵師 ウィキペディアから

狩野永納
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狩野 永納(かのう えいのう、寛永8年(1631年) - 元禄10年3月7日1697年4月27日))は、江戸時代前期の狩野派京狩野)の絵師。京狩野3代当主。は吉信、通称は縫殿助。字を伯受、別号に山静、一陽斎、梅岳、素絢軒など。

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狩野永納像(伝木村香雪筆、京都国立博物館蔵)

父は2代当主狩野山雪、母は初代当主狩野山楽の娘竹。子に永敬永梢

経歴

要約
視点

幼少期

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春夏花鳥図屏風(左隻)
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春夏花鳥図屏風(右隻)

狩野山雪の長子として京都に生まれ、幼少より父から狩野派の画法を学んだ。後に江戸の狩野派(江戸狩野)の宗家・中橋家当主の狩野安信についたという[1]

慶安2年(1649年9月25日、父が母方の叔父とされる狩野伊織の金銭トラブルに巻き込まれ、京都所司代板倉重宗の裁許で揚屋に投獄された。この時期に書かれたと推定される収容中の山雪が永納へ宛てた年不明10月4日付の手紙があり、内容は「夢で聞いた託宣の行方を調べるように告げ、春日大明神なら九条大御所様の御社に参って欲しい」という伝言だが、美術史家五十嵐公一寛永9年(1632年)に春日大明神を勧請した九条家の屋敷鎮守社を指し、山雪と関係が深い九条幸家へ助けを求める暗号を送ったのではないかとしている。永納が手紙の指示を実行したかどうかは分かっていないが、山雪は幸家の助力で釈放されたという(時期は不明)[2]

家督相続

慶安4年(1651年3月12日、21歳の時に父が亡くなると、直ちに家督を継いで、父と同じ「縫殿助」を称すようになる。「縫殿助」は百官名であるが、山雪の代から京狩野歴代当主が名乗るようになった。「永納」の名も家督相続時には明らかに用いており、頭の「永」字は家系の曽祖父木村永光、或いは画系の曽祖父にあたる狩野永徳、更に遡れば狩野元信が剃髪後に称した「永仙」の一字である。祖父山楽・父山雪の「山」字ではなく、狩野派にとって由緒ある「永」字を冠することで、家系と画系への帰属意識を標榜し、以後京狩野は名前に「永」字を冠することになった。ただし、「山」字も捨てたわけではなく、永納が「山静」の別号を名乗ったように、後の画人も号に山の字を付けるのを慣わしとしている[3][4]

父の死から2ヶ月後の5月27日涅槃図を描いたとされるが、五十嵐は絵の釈迦と周辺の主要部分は父が描き、残りは永納が完成させたと推測している。また父と親しかった那波活所の縁者の関わりも指摘、涅槃図を播磨如来寺に寄進したのは活所の母方の伯父・円尾宗甫の子供達であり、活所との縁で山雪に仕事を依頼、裁判で苦境にあった京狩野に完成まで仕事を任せた可能性を挙げている[5]。西播磨には如来寺の他に圓教寺の塔頭・十妙院にも障壁画作品があり、永納との親しい繋がりが示唆されている[6][7]

家督相続してからは父の恩人幸家を頼り九条家の出入りを許され、活動は幸家の詞書による「新三十六歌仙図帖」の絵を担当したり、幸家の孫娘の夫浅野綱晟林鵞峰に九条家の家宝「中殿御会図」を模写して送ったことが挙げられる。幸家の長男・二条康道が養子に入った二条家からも頻繁に注文を頼まれたことが二条家の記録『二条家内々御番所日次記』に記され、明暦2年(1656年12月27日条が永納が登場した最初の記録であるが、この記録で永納は康道の下に色紙50枚を持参したとあることからそれ以前に交流があったと考えられる。康道が永納へ注文した仕事は屏風や絵画などがあり、永納も康道との関係を大切にして正月・端午の節句など節目の挨拶で彼の下を頻繁に訪問しており、康道が実父を亡くす前の寛文5年(1665年8月11日16日に見舞いに訪れ、二条家とは康道の子二条光平に代替わりした後も長期にわたり交流を続けた。二条家関係の永納の作品で現存している絵は万治2年(1659年)作の『舞楽図巻』である。九条家の出入りも続け、九条兼晴(幸家の養孫)と兄弟の三宝院門跡高賢随心院門跡俊海の下へ出入りして仕事を請け負い交流を広げていった[8][9]

禁裏御所障壁画制作に3度参加しており、承応2年(1653年)6月に禁裏が炎上してしまったため、翌年から明暦元年(1655年)にかけての再建工事では、狩野探幽海北友雪土佐光起らに混じり参加、「外様番所十二条敷」に「竹図」、「長橋上段之次」に「軍鳩図」を描いている(『禁中御絵画工記』)。次の寛文3年(1663年)の造営でも内侍所「南御座敷」に「松鷹図」を描いた。更に延宝度(3年(1675年))の造営でも、中心となった狩野安信らと共に加わっている。しかし、これらの作品は現在全く遺されていない[10][11]

なお、永納が障壁画制作に参加出来た背景には、伊織が寛永19年(1642年)の禁裏御所障壁画制作に参加したという履歴が大きかったとされる。ただし両者の関係は疎遠で、寛文3年3月3日に永納が二条家に参上した後に伊織も二条家に参上したが、2人は一緒ではなかったことが二条家内々御番所日次記に確認されている。以後伊織は消息不明となり、京狩野菩提寺で歴代の墓がある泉涌寺に伊織の墓は無く、もう1つの菩提寺で過去帳に京狩野の記録がある浄慶寺にも伊織の記録は無い。裁判で京狩野に迷惑をかけたことで伊織は京狩野から記録を抹消されたと推測されている[12]

禁裏御所障壁画以外の作品として寛文3年に「霊元天皇即位・後西天皇譲位図屏風」を描いた他、寛文6年(1666年1月18日から4月10日までの約3ヶ月間で23件の仕事に取り組んだことが確認されている(『寛文六年染筆之覚』)[13]。寺社縁起絵巻も手掛け、「泣不動縁起絵巻」「海住山寺縁起絵巻」「穴太寺縁起絵巻」「有馬温泉寺縁起絵巻」「菅生宮縁起絵巻」「増賀上人行業記絵巻」を描いた[14]。一方で和歌に熱中して頻繁に歌会に出席、山本春正五十川梅庵らと交流を深め人脈形成に繋げていった[* 1]

隠居

貞享元年(1684年4月26日に京都を出て5月29日に帰京するまで1ヶ月間天橋立小浜などを旅して回り、行く先々で知り合いと会話したり趣味の和歌を詠んだことなどを紀行文「鳥跡記」で書き記した[17][18]。それから1か月後の6月下旬頃、長子の永敬に家督を譲り剃髪する(一条兼輝の日記『兼輝公記』6月26日条)[19]。永敬が23歳になり家督を譲ることを考えたというが、1年半前の天和2年(1682年11月12日に二条光平が亡くなったことも契機とされる[20]。隠居後に描いた作品に大和正暦寺の塔頭・福寿院客殿にある襖と板戸の障壁画があり、制作年は元禄2年(1689年)である[21]

学究肌で絵を描く傍ら古画の研究にも励み鑑定に精通した[1]。また黒川道祐と親しく、延宝9年(1681年)に道祐が大和の旅行から帰ったばかりの永納の自宅を訪ね、大和での美術鑑賞と古刹巡りを話し合ったことを記録に残している。この縁で道祐は永納の『本朝画伝』成立に力を貸し、初版の本朝画伝(元禄4年(1691年)刊行)に跋文を寄せる、林鵞峰に依頼して序文を寄せてもらうなど永納へ援助を惜しまなかった。ただし本朝画伝は鵞峰と道祐亡き後の元禄6年(1693年)に題名を『本朝画史』と改められて再販、鵞峰の序文は残った一方で道祐の跋文は省かれた[* 2]

元禄10年(1697年)死去、享年67。没後は泉涌寺裏山に山楽・山雪と共に葬られた[1]

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画風

江戸狩野に対抗意識を抱いていた一方、父の怪奇様式を継がず、祖父山楽の温雅な作風に寄り添い、江戸狩野が得意としていた瀟洒な余白の使い方も取り込んだ。作品にはしばしば両者の影響が混在、「龍虎図屏風」は祖父の温雅さと父の幾何学的構成が同居した作品である[24]。「四季花鳥図屏風」「春夏花鳥図屏風」にも松の人工的な形などに幾何学的構成が見られるが、周りに草花や鳥が鏤められ暖かさを醸し出している[25]。和歌を好んだ影響で大和絵の風情も摂取した[7]

本朝画史で狩野探幽を狩野派を一変させたと評する一方、永徳の正統な画風を山楽が得たと主張、漢画・大和絵を兼ねる狩野派の画風を強調した。斬新な探幽の絵と比べて保守的な画風が目立つことも、伝統継承をもって京狩野の正当化を図る意図があった。ただし、山雪について本朝画史で画人伝が無いため(慶安2年の投獄が影響していたとされる)、山楽から山雪への画系の継承が明記されていない[26]

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作品

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家族

  • 父:狩野山雪(1590年 - 1651年)
  • 母:竹(1601年 - 1662年)
  • 弟:狩野乗信(1637年 - 1658年)[41]
  • 長男:狩野永敬(1662年 - 1702年)
  • 次男:狩野永梢(生没年不詳)
  • 猶子:狩野常貞(生没年不詳) - 甥、乗信の子[42]

浄慶寺の過去帳には元禄4年閏8月29日に娘が、正徳2年(1712年)6月27日に妻が亡くなったことが書かれている[43]

著書

  • 『鳥跡記』 - 貞享元年(1684年)の4月26日から5月29日までの旅行を書いた紀行文。
  • 本朝画史』(全5巻)、元禄6年(1693年)刊 - 日本最初の画家列伝の編纂を企画した父の遺稿を延宝6年(1678年)に引継ぎ、黒川道祐の援助で完成させたもので、現在でも日本美術史研究の上で重要な基礎資料となっている[1][4]

脚注

参考文献

関連項目

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