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第8師団 (日本軍)
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第8師団(だいはちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。1898年に立見尚文を初代師団長に弘前で結成。
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概要
日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで、兵士はおもに東北地方出身者から構成された。編成時の所属歩兵連隊は歩兵第5連隊・歩兵第17連隊・歩兵第31連隊・歩兵第32連隊。初代師団長は台湾総督府幕僚参謀長だった立見尚文中将。1898年11月15日に師団司令部、監督部が開庁した[1]。
歴史
要約
視点
八甲田雪中行軍遭難事件
勝利に終った日清戦争であるが、ロシア・フランス・ドイツによる所謂三国干渉によってロシアとの間に緊張が高まっていた。ロシアとの一戦は避けられないとの予測から陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。これに基づき師団は1902年(明治35年)1月八甲田山における行軍訓練を行ったが、この時死者199名を出した八甲田雪中行軍遭難事件が起きた[2]。
日露戦争
日露戦争後
大陸戦線
太平洋戦争
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歴代師団長
- 立見尚文 中将:1898年(明治31年)10月1日 - 1906年7月6日
- 渡辺章 中将:1906年(明治39年)7月6日 - 1908年12月21日
- 山根武亮 中将:1908年(明治41年)12月21日 - 1912年2月14日
- 小泉正保 中将:1912年(明治45年)2月14日 - 1914年5月11日
- 大井成元 中将:1914年(大正3年)5月11日
- 白井二郎 中将:1918年(大正7年)7月2日 - 1921年7月20日
- 小野寺重太郎 中将:1921年(大正10年)7月20日
- 菱刈隆 中将:1924年(大正13年)2月4日
- 真崎甚三郎 中将:1926年(昭和2年)8月26日
- 三好一 中将:1929年(昭和4年)7月1日
- 西義一 中将:1931年(昭和6年)8月1日 - 1934年3月5日[8]
- 中村孝太郎 中将:1934年(昭和9年)3月5日
- 下元熊弥 中将:1935年(昭和10年)12月2日
- 前田利為 中将:1937年(昭和12年)8月2日
- 塚田攻 中将:1938年(昭和13年)12月10日
- 本多政材 中将:1940年(昭和15年)10月28日
- 横山静雄 中将:1942年(昭和17年)6月26日
- 横山静雄 中将:1945年(昭和20年)3月19日(第8師団長 兼職 第41軍司令官)
歴代参謀長
- 今橋知勝 歩兵大佐:1898年(明治31年)10月1日 - 1901年2月4日[9]
- 仙波太郎 歩兵大佐:1901年(明治34年)2月9日 - 1901年2月19日[10]
- 林太一郎 歩兵中佐:1901年(明治34年)2月19日[11] - 1905年1月14日[12]
- 由比光衛 歩兵中佐:1905年(明治38年)1月14日- 1908年3月9日[13]
- 大村信行 歩兵中佐:1908年(明治41年)3月9日 - 1913年3月4日[14]
- 竹内赴夫 工兵大佐:1913年(大正2年)3月4日 - 1916年1月12日[15]
- 高崎喜惣 歩兵大佐:1916年(大正5年)1月12日 - 1918年7月24日[16]
- 川瀬亨 輜重兵大佐:1918年(大正7年)7月24日 - 1920年8月10日[17]
- 南保貞次 歩兵大佐:1920年(大正9年)8月10日 - 1922年8月15日[18]
- 坂本政右衛門 歩兵大佐:1922年(大正11年)8月15日 - 1923年8月6日[19]
- 厚東篤太郎 歩兵大佐:1923年(大正12年)8月6日 - 1924年4月15日[20]
- 記録勇助 砲兵大佐:1924年(大正13年)4月15日 - 1925年5月1日[21]
- 大谷一男 歩兵大佐:1925年(大正14年)5月1日 - 1927年7月26日[22]
- 篠原四郎 歩兵大佐:1927年(昭和2年)7月26日 - 1929年8月1日[23]
- 高田美明 歩兵大佐:1929年(昭和4年)8月1日 - 1931年8月1日[24]
- 小林角太郎 歩兵大佐:1931年(昭和6年)8月1日 - 1933年3月18日[25]
- 久納誠一 騎兵大佐:1933年(昭和8年)3月18日 - 1935年3月15日[26]
- 高木義人 歩兵大佐:1935年(昭和10年)3月15日 - 1936年3月7日[27]
- 人見与一 歩兵大佐:1936年(昭和11年)3月7日[28] - 1937年10月
- 西原貫治 歩兵大佐:1937年(昭和12年)10月[29] - 1938年7月15日[30]
- 武田馨 砲兵大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年8月1日[31]
- 児玉久蔵 歩兵中佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1940年3月9日[32]
- 福島久作 歩兵中佐:1940年(昭和15年)3月9日 - 1941年3月1日[33]
- 小松巳三雄 大佐:1941年(昭和16年)3月1日 - 1941年11月12日[34]
- 川目太郎 大佐:1941年(昭和16年)11月12日 - 1944年2月7日[35]
- 浅野憲一郎 大佐:1944年(昭和19年)2月7日 - 終戦[36]
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最終所属部隊
関連事項
小野田寛郎
終戦の後もフィリピンのルバング島に残置諜者として潜伏し30年を経て帰還した小野田寛郎少尉は、辞令の上では第14方面軍司令部附であったが、同司令部情報部を通して第8師団参謀部に所属していた。小野田が主宰する小野田自然塾ホームページ[37]では自身の軍歴を第8師団の通称号である「杉」を用いて「杉兵団参謀部に配属」と紹介している[38]。
脚注
参考文献
関連項目
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